レッスンでは、呼吸法のパートが終わったあとに、三分から五分ほど瞑想の時間がある。座り方についてはまだ細かい指示がなく、自分にとって楽な姿勢でいい。指示されるのは一つだけで、呼吸に集中すること。やること自体はシンプルで、迷う余地はない。
ただ、その三分を積み重ねながら、これが「瞑想」というものの全体なのか、それともまだどこか手前にいるのかが、自分ではよく分からなかった。世間で聞く瞑想の説明は、心を無にする、雑念を消す、といった方向のものが多い。けれど実際に座ってみれば雑念は次々に湧いてくるし、それを消そうとすること自体が新しい雑念になる。呼吸に集中しなさいという指示と、心を無にするというイメージは、どうも同じことを指していない気がしていた。
『ゲーランダ・サンヒター』の第六章は、その瞑想(ディヤーナ)にあてられている。読んでいちばん驚いたのは、この章が瞑想を「心を空にする」方向ではまったく説明していないことだった。むしろ逆で、ここに書かれているのは、心の中に具体的な情景を一つずつ積み上げていく作業である。
この章はまず、瞑想を「何を対象に心を定めるか」によって三つに分ける。形あるものへの瞑想(ストゥーラ・ディヤーナン)、光への瞑想(ジョーティ・ディヤーナン)、形なきものへの瞑想(スークシュマ・ディヤーナン)。そしてこの三分類を示したあと、章の前半の大半が一つ目の「形あるもの」の説明に費やされていく。
その中身がとにかく具体的だ。まず自分の心臓に意識を向け、そこに命のエッセンスで満ちた広大な海を思い描く。その海には宝石でできた島が浮かんでいて、島の砂もまた砕けた宝石だという。島の四方は花を咲かせたニーパの木の森に囲まれ、まるで深い溝のようになっている。マーラティ、マッリカー、ジャーティ、ケーサリ、チャンパカ、パーリージャータ、そして蓮——それらの花の香りが、島のあらゆる方向へ広がっている。島の中央にはカルパの木が立っていて、その四本の枝は四つのヴェーダ聖典を象徴し、常に豊かな花と果実をつけている。その木にはミツバチやカッコウが集まり、羽音や鳴き声がこだましている。そこに宝石で飾られた美しい王座があり、王座の真ん中に自分の守護神が座っている。ヨーギーは、自ら選んだその守護神の姿に、師から教わった方法で心を定める。守護神の装身具や乗り物といった細部にまで心を一つに定めて瞑想する——ここまでで、形あるものへの瞑想の一つ目になる。
二つ目はさらに込み入っている。頭頂のポイント(サハスラーラ・チャックラ)に、千枚の花びらをつけた大きな蓮を思い描く。その蓮の中には、十二枚の花弁をつけたもう一つの蓮がある。十二の花弁は白く輝いていて、それぞれに一音ずつのマントラが記されている。ハ、サ、クシャ、マ、ラ、ヴァ、ラ、ユン、ハ、サ、カッ、フレーン。その中心には、ア・カ・ターという三つの文字が作る三角形があり、三角形の角にはハ・ラ・クシャの文字が置かれ、その内側に原初の音である聖音オームがある。蓮の上には、音と光の象徴として二羽の白鳥がいる。白鳥はインドでは師の象徴でもあり、知恵を敬う心を表すという。そしてその上に、二本の腕と三つの目を持つ師——ヨーガを最初に人間へ伝えたとされるシヴァ神——が、白い衣をまとって座っている。
読み進めながら、瞑想に対する自分のイメージが根本からずれていたことに気づかされた。ここで求められているのは、心を無にすることではない。むしろ想像力を総動員して、細部まで作り込まれた一つの情景を心の中に立ち上げ、そこから注意を逸らさずにいることだ。しかも対象は視覚だけではない。花の香りがあり、ミツバチの羽音があり、鳥の鳴き声がある。雑念を追い払おうとするのではなく、心が留まるに足るだけの密度を持った対象をあらかじめ用意しておく、という考え方なのだと思う。
三つの瞑想には、はっきりとした序列も示されている。第二十一節には、光への瞑想は形あるものへの瞑想より百倍優れ、形なきものへの瞑想は光への瞑想より千倍優れている、と書かれている。この数字は伝統的な言い回しで、文字どおりの倍率として受け取るものではないだろうけれど、順位そのものは明快だ。光への瞑想が対象にするのは、骨盤底に蛇の姿で眠っているとされるクンダリニーであり、そこにランプの炎の形で宿るとされる生命の根源であり、あるいは眉間にあるという原初の意識(プラナヴァ)の輝きである。形なきものへの瞑想では、その潜在的な力が目覚め、アートマー(真我)と一体になっていくと語られる。そして最後のこの瞑想は「神々にとってさえ得難い」ものであり、その秘密は守られるべきだ、とまで書かれている。章はこのあと、これらの瞑想をすることで人は自分の本来の真実に目覚めるだろう、それゆえ瞑想は極められるべきである、という一節で閉じられる。
この序列は、優劣であると同時に、順序でもあるのだと思う。宝石の島や守護神の姿には、思い描くための手がかりがいくらでもある。色があり、形があり、香りや音まである。それが光への瞑想になると、対象は具体的な形を失って輝きだけになり、手がかりは一気に減る。形なきものに至っては、そもそも思い描くべき像が存在しない。つまり三段階を通して起きているのは、注意が寄りかかることのできる手がかりを、少しずつ取り外していく作業なのだ。いきなり「何も思い描かずに座れ」と言われても座れないから、まず思い描けるものを与える。密度の高い像から始めて、だんだんとそれを薄くしていく。百倍、千倍という言い方は、後の段階ほど難しいという意味でもあるはずだ。
そう考えると、レッスンで自分が教わってきたことも、同じ発想の上にあるように思えてくる。アーサナでは体の反応を観察するように言われ、呼吸法では呼吸そのものに意識を向け、そのあとの瞑想の時間にも、呼吸に集中しなさいという指示がある。「何もするな」と言われたことは一度もない。いつも、注意を向ける先が具体的に指定されている。ディヤーナが対象をあれほど細かく描写するのも、その延長にあるのだろう。注意は放っておけば勝手にさまよう。だからどこへ向けるかを先に決める。この章が紙幅の多くを対象の描写に使っているのは、瞑想において難しいのは集中すること自体ではなく、何に集中するかを定めることなのだ、と言っているように読める。
もっとも、クンダリニーが背骨を駆け上がって頭頂で振動する、といった記述をそのまま身体の出来事として受け取るのは違うと思う。これは伝統的な身体観の中での説明であって、医学的な事実の記述ではない。この章に出てくる技法を手順として自己流で試すことも、ここでは勧めない。原典自身が、瞑想の対象には師から教わった方法で心を定めるべきだと繰り返し述べている。
この文献では、ハタヨーガのことを「ガタヨーガ」と呼ぶ。まだ焼く前の土器のようにもろい人間の体を、修行の火で焼いて硬く強くする方法、という意味だそうだ。浄化に始まり、アーサナ、ムドラー、感覚の制御、呼吸法と進んできた六章までの工程は、この呼び方でいえば器を焼き上げるまでの手順にあたる。そして瞑想は、その工程の外側にある別種の実践ではなく、それらを完結させるものとして最後に置かれている。レッスンで瞑想の時間がアーサナと呼吸法のあとに来るのも、順番としては同じことなのだと思う。体を動かし、呼吸を整えたあとの体は、いきなり座るのとは違う状態になっている。あの順番は、単に流れが自然だからそうなっているのではないのだろう。
では、レッスンで渡されている「呼吸に集中する」という指示は、この三段階でいえばどのあたりに置かれるのだろうか。呼吸には、宝石の島や守護神のような思い描くべき像はない。けれど吸う息と吐く息の感覚は確かにそこにあって、注意が逸れたときにはそれと気づくこともできる。手がかりが山ほどある対象ではないけれど、何もないわけでもない。三分から五分という長さも、座り方がまだ自由なのも、たぶんそういう段階にいるからなのだと思う。百倍、千倍と語られる先の道のりを知ったところで、明日の練習でやることが変わるわけではない。それでも、あの三分がどの段階の手前にあるのかを知っているのといないのとでは、座っている時間の感じ方は違ってくる気がする。