『ゲーランダ・サンヒター』の第一章は、浄化法にあてられている。
第一章の十二節に、六つの浄化法がまとめて挙げられている。消化器上部の浄化(ダウティ)、大腸の浄化(ヴァスティ)、鼻腔の浄化(ネーティ)、消化器全般の刺激(ナウリ)、目の浄化(トラータカ)、呼吸系の浄化(カパーラバーティ)。原典はこの六つをまとめて「シャッカルマーニ」と呼んでいて、本書はそこに「6つの浄化法」という訳語をあてている。並べてみると、対象にする体の部位も、そこへ働きかける方法も、それぞれかなり違う。一言で「浄化法」といっても、中身は一つの技法ではなく、体の各部位に対応した技法の集まりらしい。
これらに共通して語られているのが、不純物を取り除くという主張だ。ただ、これは現代的な意味でのデトックスや医学的な浄化とは違う。伝統的な身体観の中での主張として読むべきもので、何かを化学的に排出するという話ではない。後に続く呼吸法や瞑想にうまく入っていくのを妨げるとされるものを、あらかじめ取り除いておく、という位置づけに近いと思う。
浄化法がこの本の第一章、つまり七章の一番最初に置かれていることも、ある種の答えのように見える。ただし、原典の配置がそうなっているからといって、それが現代の実践者にとっての必須の手順や、安全な始め方だと決まっているわけではない。あくまで、この文献がそういう構成を取っている、という事実として受け止めておきたい。
読んでいて感じたのは、この文献では身体を整えることと精神を整えることが、あまり切り離されていないということだった。まず身体の状態を整え、その先に呼吸法や瞑想がある。この順序を見ると、精神だけを直接コントロールしようとするのではなく、身体から入っていくのが、ハタ・ヨーガという実践の特徴なのかもしれないと思った。
もともと、身体と心が完全に切り離されたものだとは思っていなかった。体を動かしたり呼吸を整えたりすると、気持ちの状態も変わってくる。そのくらいの実感は、ヨガを始める前から普通に持っていたし、特に珍しい感覚でもないと思う。
ただ、『ゲーランダ・サンヒター』を読んで印象に残ったのは、そこからもう一歩踏み込んだ位置づけだった。身体を整えることは、呼吸や瞑想に入るための単なる準備運動ではなく、その後に続く修練の一部として、最初から組み込まれている。第一章に浄化法が置かれているのは、体調を整えて次の段階に進みやすくするための前座ではなく、七章立て全体を貫く修練の、正式な一段階としてそこにある、という位置づけに読める。
「準備運動」と「修練の一部」の違いは、言葉にすると小さいようで、実は結構大きい気がする。準備運動という言い方をすると、それ自体には価値がなく、本番のためにこなすもの、というニュアンスが出てくる。けれど「修練の一部」だとすれば、身体を整えるという行為そのものが、実践の目的とつながっている。呼吸や瞑想と地続きの、同じ一つの取り組みの中に含まれていることになる。
これは、自分が普段アーサナに取り組むときの感覚にも関わってきそう。アーサナを、後で瞑想をやりやすくするための下ごしらえのように捉えるのか、それともアーサナそのものが、瞑想や呼吸法と同じ地平にある修練だと捉えるのかで、練習中の意識の持ち方は変わってくると思う。以前の記事で、アーサナから呼吸法、アウェアネス、瞑想までを一つの流れでやりたいと書いたけれど、『ゲーランダ・サンヒター』のこの位置づけを読んで、その「一つの流れ」という感覚に、もう少し具体的な裏付けが加わった気がする。身体を整える段階は、後に続く段階のための下準備ではなく、それ自体がすでに全体の一部だという理解だ。
浄化法の具体的な内容については、現代の衛生や安全性の観点から見て、そのまま真似できるものばかりではないと思う。原典に書かれていることをそのまま実践に移すかどうかは、別に慎重な検討が必要な話で、個々の技法や注意点については、別の記事で改めて扱いたい。ここで持っておきたいのは、身体を整えることの位置づけ、つまり「身体は精神に従属する下準備ではなく、精神と地続きの修練である」という考え方の方だ。
普段ヨガのレッスンを受けていると、アーサナのパートと瞑想のパートが、なんとなく別のコーナーのように感じられることがある。前半は体を動かして、後半は座って心を落ち着ける、というような区切り方だ。でも『ゲーランダ・サンヒター』を読んでからは、その区切り自体が、便宜的な時間配分にすぎないのかもしれないと思うようになった。体を整えることも、心を整えることも、地続きの同じ修練の中にある。そう捉え直すだけで、アーサナの練習中に感じていることの意味が、少し変わってくる気がしている。