『ゲーランダ・サンヒター』は、以前の記事でも書いた通り、三典籍の中で一番好きな文献だ。浄化法、アーサナ、ムドラー、感覚の制御、呼吸法、瞑想、サマーディという七章立てで、ヨーガの実践を体系的に示している。
七章に整理されていて全体像はとてもつかみやすかった。浄化から始まり、体を整え、感覚と呼吸を扱い、最後に瞑想とサマーディへ至る。この順番を知っているだけで、自分が今どのあたりを練習しているのかを見失いにくくなるのではなかろうか。以前の記事で書いた「解像度が上がる」という感覚は、この七章立てを知ったことによるところが大きい。
ただ、通して読んでみてもう一つ気づいたことがある。それは、実際の練習だと必ずしもこの七章を一章ずつ順番に終えて次へ進むという形にはならない、ということ。
たとえばアーサナをしているとき、体の動きだけに集中しているわけではなく、同時に呼吸を意識していることがある。これは章で言えば、第二章(アーサナ)と第五章(プラーナーヤーマ)を同時に扱っていることになる。逆に、瞑想をしていて、身体についての理解が深まることもある。本来なら、身体を整えてから瞑想へ進む、という順番のはずなのに、瞑想という後の段階が、前の段階である身体理解を深めてくれることがある。
七章という構成は、一本の線として描かれている。けれど実際の経験は、直線というより、いくつもの章が同時に、あるいは行ったり来たりしながら進んでいく、網のようなものに近いのかもしれない。
これは、七章立てという体系が間違っているという話ではないと思う。むしろ逆で、体系があるからこそ、「今、複数の章を同時に扱っている」ということ自体に気づける。もし体系を知らなければ、アーサナ中に呼吸を意識していることも、瞑想が身体理解を深めることも、ただの漠然とした感覚として流れていっただけだったはずだ。章という区切りを知っているからこそ、それらが「本来別々の段階のはずのものが重なっている」という、具体的な気づきになる。
体系としての順序と、実際の経験がどう重なっていくのか。これは今の自分にはまだ答えが出ない問いで、これから実践を重ねながら確かめていきたいところだ。もしかしたら、練習を積むにつれて、七章が示す順番により近い経験の仕方をするようになるのかもしれないし、逆に、章をまたいで同時に進んでいくことの方が、実践としては自然な形なのかもしれない。今の段階では、どちらとも言えない。
浄化から悟りまでを一つの流れとして描いた七章立てを、実際にどう歩いていくことになるのか、それはこれから確かめていきたい。
これから三典籍、特に『ゲーランダ・サンヒター』を読む人には、七章という構成を、厳密な手順書としてではなく、自分の練習を振り返るための物差しとして使うことをおすすめしたい。今、自分がやっていることが七章のどこに近いのかを考えてみるだけでも、練習に対する見え方は変わってくるはずだ。順番通りに進んでいなくても、それはたぶん失敗ではなく、実践というものが本来持っている性質なのだと思う。