先生からは、アーサナをとっているとき、体の反応をゆっくり観察しながら行うようにと、口を酸っぱくして言われている。動きそのものより、動いたときに体の中で何が起きているかに意識を向けなさい、ということだ。最初のうちは、この「観察しながら動く」ということの意味がよく分からなかった。動きに集中するだけでも精一杯なのに、そこに観察まで加えるというのは、注文が多すぎるように感じていた。
『ゲーランダ・サンヒター』の第四章は、感覚の制御にあてられている。本書はこれを「プラッティヤハーラ」と表記している。七章のうちで一番短い章で、節の数も少ない。
読んでみて、まず面食らった。想像していたよりもずっと強い言葉が並んでいたからだ。
第二節はこう訳されている。「この休まない心が動き回るときはいつも、力ずくでも、自分の意志のコントロール下に引き戻すべきである」。本書は原文を一語ずつ割った欄を付けていて、そこを見ると「力ずくで」にあたる語がたしかに原文にある。著者の解説も同じ調子だ。心が自分の思いに反して動き出すのをみたら、常に自分の意志の下にコントロールして、力ずくでも引き戻すべきだ、と述べている。第一節にいたっては、この方法を知ることによって「欲望などの敵を破壊することができる」とある。敵を、破壊する。
それでも、ありがちな誤解の一つは、たしかに正されていた。感覚を制御すると聞くと、五感を遮断したり、刺激そのものを感じないようにしたりすることを想像しやすい。けれど原典が使っているのは「引き戻す」という語だ。第三節は、視線が行くところにはいつも心が一緒に動いている、だから外に向かう目の感覚を自分の意志で引き戻すべきだ、と説く。感覚を殺すのではなく、外へ出ていったものを連れ戻す。方向としては遮断ではない。
ただし、そのやり方が穏やかなわけではまったくない。遮断ではないが、放っておくのでもない。力ずくで引き戻す。そういう話だった。
ここで、自分が普段教わっていることとの落差に気づく。
先生の指示は「観察しなさい」だ。動きそのものより、動いたときに体の中で何が起きているかに意識を向けなさい。そこに「力ずくで」という響きはない。むしろ、力を入れずに眺めることの方を求められている。
たとえばシャヴァーサナで静かに横になっていると、体のちょっとした痒みや違和感が急に気になり出すことがある。普段ならすぐに手を動かして掻いたり、体勢を変えたりしてしまうところだけれど、そこで「痒いから動きたい」と思っていること自体を、一度観察してみる。動くのを我慢するというより、その「動きたい」という反応そのものを、ただ眺めてみる感じだ。そうしてしばらくすると、感覚そのものが変化していったり、いつの間にか気にならなくなっていたりすることがある。
これは原典の言う「力ずくで引き戻す」とは、ずいぶん手触りが違う。同じ言葉の下にあるはずなのに、やっていることの質感が一致しない。
この落差をどう受け取ればいいのか、まだ答えは出ていない。考えられることは二つある。
一つは、時代と対象の違いだ。原典が想定しているのは、生活のすべてを修行に充てる実践者だろう。同じ本の第五章が、呼吸法に入る前提として季節や住居や食事まで条件に並べていたことを思えば、そこで求められる「力ずくで」の強度は、週に何回か教室に通う人間のそれとは前提から違う。
もう一つは、入り口と先の段階の違いという見方だ。いきなり力ずくで引き戻そうとしても、そもそも心が動き出したことに気づけなければ、引き戻す対象すら分からない。観察は、その手前に置かれた段階なのかもしれない。気づけるようになって初めて、引き戻すという話になる。
どちらが当たっているのかは分からない。はっきりしたのは、原典に書かれていることと、自分がいま練習していることは、同じ言葉で呼ばれていても中身が同じとは限らない、ということだ。この二つを何となく重ねて理解していたことに、読んでみて初めて気づいた。
それでも、先生の言葉の聞こえ方は変わった。
感覚の制御というと、静かに座って外界を遮断する修行のようなイメージがどこかにあった。原典を読んで、少なくとも遮断ではないことは分かった。そして、座って行う特別な技法である以前に、注意が外へ出ていったときにどうするか、という話なのだとも分かった。だとすれば、アーサナの最中に体の反応を観察しなさいという指示も、この章が扱っている領域の内側にはある。
原典が「力ずくでも」と言っている強さに、自分の練習が届いているとは思わない。ただ、届いていないと知っているのと知らないのとでは、たぶん違う。