手や指を使うヨガの技法「ムドラー」とは

普段のレッスンでは、ムドラーという言葉自体はよく出てくる。特に呼吸法の最中や、アーサナをとっている間に、手や指の形を整えるように言われる場面がわりとある。ムドラーというと、そうした手や指のちょっとした所作というイメージが、自分の中では強かった。

本書は「ムドラー」に「印」という訳語をあてている。そして、体で作る一つの形のことで、その特別な形をとることによってエネルギーを上げることができるとされる技法だ、と説明する。形をとることと、体の中で何かが動くこととが、そこでは結びつけられている。

『ゲーランダ・サンヒター』の第三章は、そのムドラーに一章まるごとあてられていて、25種が挙げられている。本書は25種を一覧表にまとめているので、そのまま並べてみる。

マハームドラー、ナボームドラー、ウッディヤーナ・バンダ、ジャーランダラ・バンダ、ムーラバンダ、マハーバンダ、マハーヴェーダ、ケーチャリー、ヴィパリータカラニー、ヨーニ、ヴァッジャローリー、シャクティチャーラニー、ターダーギー、マーンドゥキー、シャンバヴィー、五つのダーラナー(土・水・火・風・空間の各要素への集中)、アシュヴィニー、パーシニー、カーキ、マーターンギニー、ブジャンギニー。

並べてみて、思っていたのと違う点が二つあった。

一つは、この25種の中に「バンダ」が混じっていることだ。バンダはムドラーとは別の技法だと思っていたけれど、本書の説明は逆だった。単に体の形をとるだけのムドラーもあるが、呼吸法とともに行われるムドラーは特別にバンダ(締めつけ)と呼ばれる、とある。バンダはムドラーと並ぶ別枠の技法ではなく、ムドラーの一種で、呼吸法を伴うものを指す呼び名だった。

もう一つは、16番目から20番目を占める「五つのダーラナー」だ。ダーラナーは集中を意味する語で、内容も土・水・火・風・空間という五つの要素への集中法にあたる。体を操作する技法ではなく集中の方法が、25という枠の五分の一を占めている。

残りを見ていくと、この章の性格が見えてくる。指先の所作というより、喉や舌、骨盤底、脊柱の反転といった、体のもっと大がかりな部分を使う操作が中心になっている。たとえばケーチャリーは舌や喉の感覚に関わる操作とされ、ヴァッジャローリーは生殖・泌尿器領域に関わり得る操作とされ、シャクティチャーラニーはクンダリニーを動かすとされる操作だという。

こうして個々の技法を並べてみると、それぞれ扱う体の部位も方法もばらばらに見える。ところが本書は、章の解説に入る手前で、主要なムドラーを目的別に四つへ整理した表を置いている。上向きの気を保つもの(ジャーランダラ・バンダ、ヴィパリータカラニー、ケーチャリー)、下向きの気を保つもの(ヴァッジャローリー、サハロリ、アマロリ)、クンダリニーを覚醒させるもの(マハームドラー、マハーヴェーダナ、シャクティチャーラナ)、そして中心の気の通り道であるシュシュムナーに気を通すもの(マハーバンダ、ウッディヤーナ・バンダ、ムーラバンダ)。

四つとも、気をどう扱うかという言い方で括られている。保つ、覚醒させる、通す。操作する体の部位はばらばらでも、狙っているものの側は一貫している。ムドラーとは、体の操作そのものが目的なのではなく、体の操作を通じて気の流れを留めたり、向きを変えたり、通したりしようとする技法群を指す言葉なのだろう。

つまりムドラーとは、アーサナのように体の外形を整えることが目的なのではなく、体を材料として使いながら、プラーナや意識といった内側の働きに直接手を伸ばそうとする技法だと言える。七章の構成でムドラーがアーサナの次、プラーナーヤーマの前に置かれているのも、この性質と一致している。体の外形を整える段階と、呼吸そのものを扱う段階の間に立ち、体を使いながらすでに内側を狙っている技法として、そこに置かれているのだと思う。

一つ例を挙げると分かりやすいかもしれない。ヴィパリータカラニーは、名前が示す通り、体の上下を逆転させる操作だ。頭を下に、腰から下を上にする、という体の使い方そのものは、見た目としてはアーサナの逆転系のポーズと大きく変わらない。原典がこれをアーサナではなくムドラーとして扱っているのは、その体勢そのものを目的にしているのではなく、「月と太陽」「甘露の保持」といった、体の内側で起きているとされる働きに向けて行うとされているからだ。つまり、体の動かし方そのものはアーサナと変わらなくても、それが体の外形を整えるために行われればアーサナで、体の内側の働きに向けて行われればムドラーになる、という違いなのだと思う。

つまり、自分がレッスンで教わってきた手や指のムドラーは、この章が扱っている技法群からするとごく一部、しかも一番取り組みやすい入り口の部分だったのだと分かった。本章に並ぶ多くの技法は、体への負荷や作用が大きいとされていて、正しい指導や条件を抜きに自己流で試みるようなものではないらしい。だから個々のやり方をここで説明するつもりはないし、それは自分がすべきことでもないと思う。ただ、「ムドラー」という一つの言葉の下に、指先で完結する軽い所作から、喉や骨盤底、プラーナやクンダリニーに関わるとされる本格的な操作まで、かなり幅の広い技法が同じ言葉でくくられているという事実は、知っておいてよかったと思う。

自分が普段のレッスンで教わっている手や指のムドラーも、規模は小さいけれど、この橋渡しという性質を確かに持っている気がする。呼吸法の最中に手の形を整えると、それだけで呼吸への意識の向け方が変わる感覚がある。アーサナの中で指を組んだり触れさせたりする所作も、単なる飾りというより、体の外側の動きから、もう少し内側の感覚へ注意を引き戻すきっかけになっているように思う。原典が描く本格的なムドラーとは規模も強度もまるで違うけれど、体の操作を通じて内側に働きかけるという方向性そのものは、案外同じところを向いているのかもしれない。