レッスンでアーサナをとっている間、呼吸は自然に任せることが多い。動きに合わせて吸う・吐くを細かく指示されるというより、呼吸は流れるままにしておいて、意識は体の感覚へ向ける。一方、アーサナを一通り終えると、今度は呼吸そのものを扱う時間がやってくる。そこでは、ただ自然に呼吸するのではなく、吸う、吐く、止めるといった呼吸の流れを意識し、ときには一定のリズムや長さに整えていく。
つまり、レッスンの中には、自然に起こる呼吸に任せる時間と、呼吸に意識を向けて意図的に整える時間がある。そして後者は、アーサナの中に混ぜ込まれるのではなく、「呼吸法」として独立したパートになっている。この区切り方を、自分はずっと当たり前のものとして受け取ってきた。呼吸を整えると気持ちが落ち着く、という体感的な納得もあった。ただ、普段は無意識に繰り返している呼吸を、なぜわざわざ意識して整えるのか。そしてヨガの中で、呼吸法はそもそもどのような実践として考えられてきたのか。そこまで立ち止まって考えたことは、あまりなかった。
『ゲーランダ・サンヒター』の第五章は、そのプラーナーヤーマ、つまり呼吸法にあてられている。読んでまず意外だったのは、この章がなかなか呼吸法の話を始めないことだった。技法の名前が並ぶ前に、かなりの分量を使って書かれているのは、呼吸法を行うための条件の方なのだ。呼吸法を始めてよい季節と避けるべき季節、練習の場として避けるべき場所、練習のために用意する家や小屋のこと、食べるべきものと避けるべきもの。そしてサマヌと呼ばれるナーディの浄化。ナーディというのは、体の中をプラーナが通るとされる道のことで、その通り道をあらかじめ整えておく手順が、呼吸法そのものに入る前に置かれている。
技法として挙げられているのは八つの呼吸法で、順に、スーリヤ・ベーダナ、ウッジャーイー、シートカリー、バストリカー、ブラーマリ、ムールッチャー、サヒタ、ケーヴァラ(ケーヴァリー)。先に触れたナーディの浄化にあたるものも、この八つの手前に、浄化呼吸法(ナーディー・シュッディ)として置かれている。名前を並べただけでは分かりにくいけれど、それぞれ性格はかなり違う。鼻孔を使い分けるもの、喉の使い方を調整するもの、口や舌を使って息を吸うもの、強い呼吸を速く反復するもの、音を伴うもの。「呼吸法」という一つの言葉の下に、体のどこをどう使うかも、何を狙っているかも異なる技法が集められている。
本書がこの八つに対して面白い扱いをしているのは、同じく八つの呼吸法を挙げている『ハタヨーガ・プラディーピカー』と並べて比較しているところだ。二つの文献のあいだには二世紀ほどの隔たりがあり、『ハタヨーガ・プラディーピカー』は15世紀、『ゲーランダ・サンヒター』は17世紀の古典とされる。それでも八つのうち六つは同じ呼吸法で、違っているのはそれぞれ二つずつだけだという。『ハタヨーガ・プラディーピカー』の側にあって『ゲーランダ・サンヒター』にないのは、意識が遠くなるまで息を保つプラヴィニーと、体の熱を冷ますシータリー。逆に『ゲーランダ・サンヒター』の側の特徴として挙げられているのがサヒタとケーヴァラで、本書によれば、この二つはどちらもマントラ(聖音)を使って行う呼吸法にあたるという。
二世紀を隔てた文献が、八つのうち六つまで同じ技法を共有しているという事実は、それだけでこの領域の扱われ方を示しているように思う。呼吸法は、書き手が自由に増やしたり入れ替えたりできる部分ではなく、ある程度固まった形で受け継がれてきた核にあたるのだろう。そして残りの二つに、その文献の性格が出る。『ゲーランダ・サンヒター』の特徴が、どちらも音を使う呼吸法だったというのは、この文献にとっての呼吸が、息の出入りを整える作業であると同時に、音と結びついた行為でもあったことを意味している。呼吸を扱いながら、その時点ですでに意識を一点へ向ける方向を向いているわけだ。七章の並びで呼吸法の次に瞑想(ディヤーナ)が置かれているのも、こうして見ると無理のない流れに見えてくる。
もう一つ気づいたのは、この八つが「吸う・吐く」のやり方の一覧ではないということだった。『ハタヨーガ・プラディーピカー』の側では、八つの呼吸法はクンバカ、つまり息の保持として述べられている。呼吸法という言葉から普通に想像するのは、深く吸って長く吐く、といった息の出し入れの仕方だと思うけれど、原典が重心を置いているのは、吸って、保持して、吐く、という三つの局面のうち、真ん中にある保持の方だ。呼吸を整えること自体が目的というより、呼吸を通じて体の内側の何かを留めたり動かしたりすることが狙われている。
そう読んでいくと、最初に置かれていた季節や場所や食べ物の話が、単なる前置きではないことが分かってくる。他の章と比べてみると違いがはっきりする。アーサナの章は32のポーズを列挙していくし、浄化法の章も技法の説明が中心で、そこに「この季節に始めなさい」「こういう家を用意しなさい」という生活の条件はついてこない。呼吸法の章だけが、練習を始める前に生活の方を整えることを求めている。つまり呼吸法は、時間を見つけて単体で試せる技法としては描かれていない。それを行うのに適した季節があり、場所があり、食事があり、体の内側の準備がある。そこまで揃えて初めて着手できるものとして扱われている。
なぜそんなに大事にされるのか、という問いへの答えの半分は、たぶんここにある。大事にされているというより、扱いが重いのだ。生活ごと条件を整えなければ始められないものとして書かれているという事実そのものが、この文献が呼吸をどれくらい強い作用を持つものと見なしているかを示している。効果が大きいと考えられているものは、同時に、いい加減に扱ってはいけないものとして書かれる。呼吸法の章に条件が多いのは、この技法が軽く扱われていないことの裏返しなのだと思う。
もう半分の答えは、呼吸というものの性質そのものにあるのだと思う。体の働きの中で、呼吸は少し変わった位置にいる。心臓の動きや消化を自分の意思で変えることはできないけれど、呼吸だけは、放っておけば勝手に続いている一方で、意識を向ければ深くも浅くも、速くも遅くもできる。自動で進んでいる働きの中に、意識的に手を入れられる隙間がある。伝統的な身体観の中で、呼吸がプラーナという生命力の働きと結びつけて語られ、その制御が修行の中心に置かれてきたのは、この二面性と無関係ではないはずだ。体の側からも、心の側からも触れられる場所が呼吸であり、だからこそ、そこを扱う技法が体系の中で大きな位置を占めることになる。
自分の練習に引きつけて考えると、レッスンの呼吸法のパートで扱っているのは、この章が描く世界のごく手前の部分にあたる。呼吸に意識を向け、深く静かに整えていく。そこまでは日常の中でも練習できるし、実際にやってみれば体の感じ方の変化も分かりやすい。けれど原典が本題にしているのは、その先の保持の領域で、これは季節や場所や食事まで含めた条件の上に成り立つものとして書かれている。八つの呼吸法それぞれの手順や、何回行うか、どれくらい保持するかといったことは、この記事では書かない。原典に記載があることと、それを今の自分が読んで試してよいこととは別で、呼吸を止める種類の練習には、体調や持病によって向かない場合があると考えておくべきだと思う。指導者のもとで、自分の状態に合わせて教わるべき領域だ。
それでも、この章を読んだことで、レッスンの構成の意味は以前より立体的に見えるようになった。アーサナを一通り終えてから、改めて時間を区切って呼吸法に入る。あの区切りは、単に練習メニューの順番の問題ではなかったのだと思う。原典の側でも呼吸法は一章を与えられ、しかもその章だけが、始める前に整えるべき条件を長々と並べている。扱いが違うものだから、扱いを分けてある。アーサナの最中に呼吸を自然に任せておくのも、呼吸を放置しているのではなく、呼吸を正面から扱う時間を別に取ってあるからなのだろう。ヨガの体系の中で最も条件が厳しく、最も強い作用があると考えられてきた領域の、いちばん手前の入り口に、毎回そっと足をかけている。そう思って呼吸を数えてみると、いつもの練習の見え方が少し変わってくる。