ヨガでいう「気(プラーナ)」って結局なに?

レッスンでは、アーサナのパートが一通り終わったあとに、呼吸法の時間がある。プラーナーヤーマと呼ばれる部分で、日本語では調気法と訳されることが多い。字面のとおりに読めば「気を調える法」ということになる。前にこの呼吸法について記事を書いたときも、この語を何度も使った。ただ、そう書きながら、肝心のプラーナそのものについては一度も説明しないまま通り過ぎていた。呼吸法の話は、息をどう扱うかという話としてだけでも、一応は成立してしまう。

改めて向き合ってみると、この語はなかなか厄介だ。日本語では「気」と訳され、そこに生命力とかエネルギーといった説明が添えられる。どれも間違ってはいないのだろうけれど、輪郭がまるでつかめない。息そのものを指しているのか、息に乗って運ばれてくる何かなのか。体の中にあるものなのか、体の外から入ってくるものなのか。ヨガの本を読んでいると当たり前の顔をして出てくる語なのに、いざ「それは何か」と問われると答えられない。

そこで、本書のどこかにある定義を探すつもりで読み直した。定義らしきものは、意外にあっさり見つかる。チャックラの説明に入る手前で、体にはたくさんの気が流れていて、それが体の動きを作り出している、このエネルギーをヨーガの言葉ではプラーナという、と書かれている。別の節では生命力とも言い換えられている。拍子抜けするのは、その先だった。説明はほぼこれで終わってしまい、あとに続くのはまったく別の種類の記述になる。それがどこを通るのか、どちらへ向かうのか、どうすればその向きを変えたり留めたりできるのか。プラーナが何であるかは一行で済まされ、そのあとはひたすら、どう振る舞うかが語られていく。

いちばんはっきりそれが出ているのが『ゴーラクシャ・シャタカン』の並びだった。この文献はヨーガの実践を六支として示していて、アーサナの次にプラーナーヤーマが来る。ところが本文の展開を追っていくと、姿勢の説明が終わったあと、呼吸法の技法にたどり着くまでのあいだに、二十ほどの節が費やされている。そこに並ぶのは、気の源とされるカンダ、気の通り道であるナーディー、左右と中央を通る三つの道、月・太陽・火に対応づけられた道、五つの流れと五つの動き、上下に流れる気。呼吸の技術の話が始まる前に、気がどこをどう流れるとされているのかが、延々と説明されている。

この配置は、それだけで一つのことを教えてくれる。プラーナは呼吸そのものではない。もし同じものなら、呼吸法の手前にこれだけの分量を置く必要がない。六支の第二支にあたる原文の語は「プラーナ・サンヤーマ」で、著者はこれに「プラーナーヤーマ(調気法)」という訳語をあてている。名指されているのは息ではなく気の方であり、息は、その気を扱うために手をかけられる場所として出てくる。呼吸は目的ではなく、取っ手という方が近いのかもしれない。

もっとも、これはあくまで自分の側の言い方で、文献はもう少し込み入ったことを書いている。「呼吸:気のコントロール」という見出しの節があって、そこには、糸につながれた鷹は飛び立っていっても糸を引けば引き戻せる、という比喩が出てくる。ただし糸にあたるとされているのはグナと呼ばれる三つの質で、呼吸ではない。しかも同じ節は、上向きの気に呼息を、下向きの気に吸息をあてている。この節に限れば、気は呼吸と切り離されるどころか、吐く息と吸う息そのものに重ねられていることになる。節ごとに、気と呼吸の距離は伸びたり縮んだりする。一つの定まった関係を探しにいくと、たぶんつまずく。

では、その気をどう扱うことになっているのか。『ゲーランダ・サンヒター』のムドラーの章に、それがよく分かる表がある。この章は25種の技法を順に解説していくのだが、その手前で、主要なものを目的別に四つへ整理している。上向きの気を保つもの、下向きの気を保つもの、潜在力(クンダリニー)の覚醒に関わるもの、そして中心の通り道であるシュシュムナーに気を通すもの。分類の基準が、体のどこを使うかでも、どんな形を取るかでもなく、気をどちらへ向けるかになっている。同じ章には、単に体の形をとるだけのムドラーもあるが、呼吸法とともに行われるものは特別にバンダ、つまり締めつけと呼ばれる、という説明も置かれている。締めるという操作は、気の流れをせき止めたり向きを変えたりするためのものとして位置づけられている。

なお、ここで名前を挙げている技法は、この記事では文献上の分類として触れているだけで、やり方を説明しているわけではない。締めつけや息の保持を伴う技法には、それぞれ避けるべき条件がある。自分が通っているレッスンでも、アーサナにも呼吸法にも禁忌があることは個別に教わっていて、それは本を読んで自分で判断できる類のものではなかった。実際に取り組むなら、指導者に相談しながら進めるのが前提になる。

もう一つ、読んでいて意外だったのは、プラーナが一つのものとして扱われていないことだった。『ゴーラクシャ・シャタカン』には、五つの流れと五つの動きを扱う節がある。五つの流れは、プラーナ(上向き)、アパーナ(下向き)、サマーナ(変換・吸収)、ウダーナ(逆流)、ヴァーナ(循環)。そこから生まれる五つの動きとして挙げられているのが、げっぷ、瞬き、涙、あくび、そして喜んで手を叩くこと。生命力という大きな話をしていたはずが、急にげっぷとあくびが出てくる。気は単一の何かではなく、複数に分かれ、それぞれが違う場所を受け持ち、違う向きに働くものとして数えられている。『ヨーガ・ターラヴァリー』にも、プラーナとアパーナという対で現れる主題があって、上へ向かうものと下へ向かうものが並べて語られる。先ほどのムドラーの分類が、上向きの気を保つ技法と下向きの気を保つ技法をわざわざ別の項目として立てているのも、この対応で読むと筋が通る。上向きの気に呼息、下向きの気に吸息をあてる節があったことを思い出すと、呼吸が二つの気の両方に関わっているらしいことも見えてくる。分類されているのは技法の見た目ではなく、どの気を、どちらへ、という組み合わせの方だと思う。

気が複数あり、それぞれに名前と受け持ちが与えられているというのは、この語が漠然とした生命力の総称ではないということでもある。正体の説明は一行で終わるのに、区分だけはかなり細かい。この二つが同居しているところが、プラーナという語のいちばん独特な点だと思う。輪郭がつかめないのは、説明が足りないからではなく、そもそも輪郭を描く方向に説明が向いていないからなのだろう。

呼吸法の章にも同じ考え方が現れる。第五章は八つの呼吸法を扱う章だが、技法の名前が出てくる前に、気の通り道の浄化に十二の節が充てられている。ナーディー・シュッディと呼ばれる浄化の呼吸法で、ナーディーをあらかじめ整えておく。何かを通す前に、道の方を通れる状態にしておく、という順序だ。ここでも語られているのは、プラーナという物質の性質ではなく、それが通る経路の状態の方になる。『ヨーガ・ターラヴァリー』を見ても、プラーナとアパーナ、左右と中央の通り道、呼吸の保持といった主題が扱われていて、三つの文献はこの点で見事に揃っている。

つまり、「プラーナとは何か」という問いに本書から答えを引き出そうとすると、答えは一行で返ってきて、それきりになる。そのあとに置かれているのは、それがどこにあり、どちらへ動き、どうすれば留まるか、という記述の集まりだ。名詞というより、動詞に近い扱いをされている。上に行くもの、下に行くもの、中央を通るもの、留まるもの、そのために道を整えておくべきもの。プラーナという語が指しているのは、そういう振る舞いの束なのだと思う。

ここから先は自分の解釈になるけれど、定義がそれ以上ふくらまないのは書き落としではなく、定義を必要としない書き方を選んでいるからではないか。これらの文献は実践のための書物で、読み手は、プラーナの正体を言葉で説明できるようになりたいわけではない。知りたいのは、どこに手をかければ何がどう動くか、その手続きの方だろう。そうであれば、必要な情報は「それが何であるか」ではなく「どう振る舞うか」で足りることになる。物の名前としてではなく、扱い方として書かれている。

読んでいると、これを現代の言葉へ置き換えたくなる誘惑が何度も来る。呼吸を深くしたときに起きる自律神経の変化のことではないか、血流や体温の話ではないか、姿勢を保ったときの筋の張りの感覚ではないか、というふうに。

面白いのは、本書自身がその誘惑に半分手を貸していることだった。ナーディーについて、現代科学でいえばそれは血管であり、神経の通り道である、と書いている箇所がある。中央を通る道には、背骨の中枢神経にあたる、という注釈までついている。ところが別の節では、この流れは血管よりも神経のネットワークよりも微細で、肉眼で確かめることはできない、と書く。置き換えと、置き換えられないという断りが、同じ本の中に並んでいる。

どちらが本書の立場なのかは、読んだ範囲では決められなかった。ただ、そのどちらつかずの状態こそが正直なのかもしれないとも思う。血管や神経に重ねてみないと像を結べないけれど、重ねきってしまうと、原典が言っていないことまで言わせることになる。自分としては、当面は翻訳せずに、原典の枠組みのまま持っておきたい。分かった気になるより、分からないまま輪郭だけ正確に保っておく方が、あとで役に立つ気がする。少なくとも、原典が言っていることと、自分が現代の知識で補ってしまったことは、分けたまま置いておきたい。

その呼吸法の時間に自分がやっているのは、息の長さを整えたり、吸う・吐くの流れに意識を向けたりすることで、正直に言えば、気の向きを感じ取れているとは到底言えない。上に保つとか中央を通すといった表現は、いまの自分の体感からはかなり遠いところにある。それでも、上向き・下向き・中央という分類を知ってからは、呼吸法がそもそも方向を扱う技術として組み立てられていたのだと分かって、あの時間の見え方が少し変わった。息を整えること自体がゴールなのではなく、息はそこに手をかけるための場所で、扱われているのは別のものらしい、というくらいのことは分かる。

書きながら気づいたことがある。自分はすでに、像を使って呼吸をしている。先生から言われているのは「体をよく観察する」ということで、それ以上の細かい指定はない。その指示のもとで色々試しているうちに、呼吸のときにどの筋肉がどう動いているかを観察するようになって、いまはその動きを思い描きながら息をコントロールしている。そして像を持っているときの方が、持たないときより深く吸い込める。像の中身は解剖学的なもので、原典が書いていることとは出所がまるで違う。それでも、実践の最中に像を持ち、その像に沿って体が動くという構造の方は、たぶん同じだ。

そう考えると、説明が文献ごとに揺れることの意味も変わってくる。以前、二世紀を隔てた二つの文献が、八つの呼吸法のうち六つまで共有していると書いた。技法は残るのに、それを説明する枠組みの方は書き手ごとに立て直されている。効いた手続きが先にあって、それを実践の最中に鮮明にするための像が後から用意された、という順序だとすれば、説明が入れ替わるのは不思議でもなんでもない。像は、正しいかどうかより、それを持つと何が起きるかで残ってきたのかもしれない。もちろん、正しいに越したことはない。原典の側の像が体の何に対応するのかは、いまの自分が答えられる問いではないし、自分で決めてしまわずに、教わっている先生に聞いていきたい部分でもある。

もう一つ思い当たることがある。レッスンでは「安定していて、刺激が心地よい状態を目指す」という言い方を何度も聞いてきた。けれど一年前の自分は、これを聞いても、こんな姿勢が心地いいわけがない、としか思わなかった。同じ言葉が、いまは別のものとして聞こえる。言葉の方は最初に渡されていて、中身が入るのは後からなのかもしれない。

プラーナという語も、いまの自分にとってはたぶん、一年前の「心地よさ」と同じ段階にある。一行の説明を読んだあとでも、それが何なのかはやはり答えられない。ただ、原典の側もその一行から先へ進もうとしていないのだと分かったのは収穫だった。答えの代わりに置かれているのは、どこを通り、どちらへ向かい、どう留まるかという記述で、実践者はそれを頼りに手を動かしてきたのだろう。定義を先に持たないまま、扱い方の方から近づいていく。この語との付き合い方としては、たぶんそれが正しい順序なのだと思う。