体を締める「バンダ」という技法、その意味と注意点

レッスンでアーサナを一通り終えたあと、呼吸法の時間がある。そこで何をやるかは毎回同じではないのだけれど、たまに、喉を締める形をとることがある。ジャーランダラ・バンダという名前だ、というのは知っている。知ってはいるものの、正直に言うと、自分はサンスクリット語の技法名をあまり覚えない。日本語で育った人間としては、漢語の方が頭に入りやすいというのもあるし、そもそもそこに強い興味を持ってこなかった。先生が名前を言っていたとしても、聞き流していた可能性の方が高い。

だから「バンダ」と聞いて思い浮かぶのは、長いあいだ、首のあたりだった。喉を締めるやつ、という程度の認識で、三つあるとか、腹にもあるとかいう話は、どこかで見た覚えがある程度だった。

今回はそのバンダを本書で読んでみた。読み始めてすぐ、思っていたものとかなり違うことが分かってきたので、順に書いていきたい。

定義が、体の場所ではなかった

本書はバンダを、体のどこを締めるかでは定義していない。

『ゲーランダ・サンヒター』のムドラーの章に、こういう説明がある。単に体の形をとるだけのムドラーもあるが、呼吸法とともに為されるムドラーは、特別にバンダ(締めつけ)と呼ばれる。

ここは記事10でも読んだところだ。あのときは、バンダがムドラーとは別枠の技法ではなく、ムドラーの一種だった、という驚きの方を書いた。今回あらためて読むと、驚くところがもう一つある。切り分けの基準が、体の側にない。 骨盤底を締めるとか、腹を引き上げるとか、喉を締めるとか、そういう身体部位の話ではなくて、呼吸法と一緒にやるかどうかという、関係の側で線が引かれている。

同じ定義は、本書の中で三度出てくる。『ゴーラクシャ・シャタカン』の喉の節の解説にも、体の一部を強く刺激するテクニックを印(ムドラー)といい、特に呼吸法をする時に使われる印はバンダと呼ばれる、とある。『ゲーランダ・サンヒター』のウッディヤーナ・バンダの節の解説にも、ほぼ同じ文がある。同じことを別の典籍の解説で三度書くというのは、著者がこの線を大事にしているということなのだと思う。

そして三度目の箇所には、こう続いていた。呼吸法の時には、三つのバンダのテクニックが使われます。

三つある、というまとめ方は、本書自身が持っていた。よく聞く「三大バンダ」という呼び方に近い。では、その三つが本書の中でどう置かれているのかを見ていくと、これが思ったよりばらばらだった。

同じ技法の場所が、一定しない

まずウッディヤーナ・バンダから。名前は聞いたことがある程度で、自分はやっていない。

『ゴーラクシャ・シャタカン』の節の見出しは「横隔膜の締め付け(ウッディヤーナ)」となっている。著者の訳語は横隔膜だ。ところが、その節の訳文はこう書いている。おへそと骨盤底の間にある場所を、ウッディヤーナと呼ぶ。

単語の意味を見ても、原文が指しているのは「骨盤底筋の」「おへその」という語で、へそと骨盤底のあいだ、つまり下腹部にあたる。横隔膜という語は、訳語の側にだけある。

次に『ゲーランダ・サンヒター』の方を開くと、今度はおへその上の腹部あたりが舞台になっていた。そこに働きかけると、まるで鳥が飛び立つように、上向きの気があがる、と書かれている。ウッディヤーナという語自体が「飛び立つこと」を意味するのだ、という説明もついている。

へその下と、へその上。二つの典籍で、指している場所が逆になっている。

さらに同じ『ゲーランダ・サンヒター』の少し先に、体のエネルギーのポイントを十六か所挙げた表があって、その五番目が「オーダヤーナダーラ(おへその下)」だった。ウッディヤーナ・バンダをすることで、便や尿が減少する、と説明がついている。同じ本の中で、へその上とへその下の両方が出てくることになる。

横隔膜、へその上、へその下。名前は一つなのに、指している場所が三通りある。

これがどういうことなのかは、本書には書かれていない。ウッディヤーナが動作の名前であって部位の名前ではないと考えれば、力をかける場所と、その結果引き上がる場所の両方が書かれている、と読むこともできる。ただ、それは自分の推測で、本書がそう説明しているわけではない。

呼吸法ごとに、指定されるバンダが違う

記事12で、『ゲーランダ・サンヒター』の呼吸法の章を読んだ。前半の三十節を場所や季節や食事に使ってから、ようやく技法に入る、あの章だ。

八つの呼吸法が並んでいて、その最初がサヒタ・クンバカ、最後がケーヴァリー・クンバカになっている。ちなみにこの章の冒頭には、呼吸法のことをクンバカということがある、という注記がついていた。クンバカは息を止めることを指すので、呼吸法という言葉の重心が保持の方にあるという記事12の読みは、本書自身の言い方とも合っていたことになる。

今回、その章にバンダがどう出てくるかを見てみた。出てくる。しかも、手順の一部として組み込まれている。

サヒタ・クンバカの節には、こうある。息を吸った後、そしてその息を止める前に、横隔膜の引き込み(ウッディヤーナ・バンダ)をすべきである。 この指定は、同じ技法をまとめた表にも、次の節の注意書きにも、繰り返し出てくる。

ところが、次のスールヤベーダナという呼吸法に移ると、指定されるものが変わる。その際、喉の締めつけ(ジャーランダラ・バンダ)を施すべきだ。 その次のウッジャーイーでも、やはりジャーランダラ・バンダが指定されている。

そして最後のケーヴァリー・クンバカには、バンダが一つも出てこない。十三の節にわたる、八つの中でいちばん長い説明なのに、そこにはない。

もう一つ気づいたのは、ムーラ・バンダが、この章に一度も現れないことだった。三つのうち、呼吸法の章に名前が出てくるのは二つだけだ。ただし自分が確かめたのは八つのうち四つで、残りの四つは見ていないので、「一度も」と言い切れるのは確かめた範囲でのことになる。

まとめると、こうなる。

– サヒタ・クンバカ — ウッディヤーナ・バンダ – スールヤベーダナ — ジャーランダラ・バンダ – ウッジャーイー — ジャーランダラ・バンダ – ケーヴァリー・クンバカ — 指定なし

三つセットで行うもの、という像を持っていたので、これは意外だった。呼吸法ごとに、締める場所が違う。

さらに引っかかったことがある。ムドラーの章の方では、ジャーランダラ・バンダについて、息を止めるクンバカの練習をする時には、必ず行うべき技法とされている、と書かれていた。必ず、と書いてある。それなのに、呼吸法の章のサヒタ・クンバカで指定されているのは、ジャーランダラではなくウッディヤーナの方だった。

技法の意味を説明する章と、実際の手順を置く章とで、同じ技法の位置づけが揃っていない。どちらかが間違っているという話ではなくて、たぶん、別々に書かれたものが一冊に収められている、ということなのだと思う。

自分がやっている一つに降りてみる

ここまで読んで、自分が実際にやっているのはどれなのかを考えた。

ウッディヤーナはやっていない。アーサナの練習中に「腹圧を高めて」と言われた記憶はあるけれど、本書が書いているウッディヤーナ・バンダは、息を止める局面の中で行うものなので、あれとは別のものだろうと思う。ムーラ・バンダも、やった覚えがない。

残るのはジャーランダラ・バンダで、これは呼吸法のパートでたまにやる。本書の定義に照らすと、呼吸法と一緒にやっているので、ちゃんとバンダにあたる。

そこで、本書がジャーランダラについて何と書いているかを読み直した。ここが、この記事でいちばん考え込んだところになる。

本書の解説は、この技法を現代の生理学の言葉で説明している。喉には頸動脈洞という、圧力によって心臓の鼓動を調整する場所がある。そこに圧力を加えることで、息を止める呼吸法の練習をしているときに、心拍数が不必要に上がるのを防ぐことができる。だからこの技法は、長く息を止めるクンバカの練習をする時には必ず行うべきものとされている、と。

少し先の箇所には、もっとはっきりこう書かれている。危険を伴うことなく長い保息の練習ができるため、ヨーガの呼吸法では必ず安全のために為されるテクニックです。

安全のために、と書いてある。

調べてみると、ほとんど何も出てこなかった

原典に効果の主張が出てくること自体は、これまでの記事でも何度も見てきた。今回も、死を超えるとか、老いを破壊するとか、六か月以内にヨーガが完全なものになるとか、そういう記述はいくつもある。この種の主張は、原典がそう述べているということであって、この記事がそれを保証するわけではない、という扱いにしてきた。

ただ、「安全のために」という書き方は、効果の主張とは少し性格が違うように思えた。効果の話なら、本当かなと思いながら読める。でも、危険を避けるための技法だと書かれていると、疑う気持ちが起きにくい。むしろ、やった方がいいものとして受け取ってしまう。

それで、この説明に裏付けがあるのかを調べてみた。自分が調べた範囲では、ほとんど何も出てこなかった。

医学文献のデータベースであるPubMedで、技法の名前を検索してみた結果が次のとおりだ。ウッディヤーナ・バンダが三件、ジャーランダラ・バンダが二件、ムーラ・バンダが二件。バンダと頸動脈洞を組み合わせた検索は、ゼロ件だった。百年以上、おそらくもっと長く読まれてきた技法に対して、この数になる。

しかも、そのうちの一本、二〇二五年に出たウッディヤーナ・バンダの研究の書き出しが、こうだった。ヨーガの実践が自律神経のバランスを調整することは示されてきたが、バンダの生理学的な効果を説明する研究は不足している。研究する側が、自分たちでそう書いている。

その研究の結論も、歯切れがよくない。健康な学生三十人を対象に測ってみたところ、交感神経と副交感神経の両方が同時に活性化しているように見えて、結論を出すのが難しい、というものだった。おまけに、実施した直後に拡張期の血圧が有意に上がり、十分後に元へ戻ったという結果も報告されている。

そして、自分がやっているジャーランダラ・バンダと心血管系を主題にした論文は、一九八八年のものが一件あるだけだった。旧チェコスロバキアの科学アカデミーの研究者によるもので、しかもPubMedには抄録すら入っていない。表題から、そういう研究が行われたらしいということが分かるだけで、何をどう調べて何が分かったのかは読めない。

断っておくと、件数は検索した語によって変わる。バンダが単独の主題ではなく呼吸法の研究の一部として扱われていれば、この数え方では拾えない。PubMedに収録されていない雑誌もある。だから「研究が存在しない」と言えるわけではなくて、自分が調べた範囲では見つけられなかった、というところまでだ。

それでも、本書が「必ず安全のために為される」と書いていることの裏付けを、現代の研究に探しに行って、ほぼ手ぶらで戻ってきたのは確かだった。

なぜ少ないのか、考えてみる

理由は分からないので、思いついたことをいくつか並べておきたい。どれも確かめていない。

一つ目は、測れるものだけが切り出されているのではないか、という見方だ。ジャーランダラの主張は心拍に関わるので測定できる。ウッディヤーナも心拍の変動として測れる。ところが原典がムーラ・バンダに与えている「下向きの流れを上向きに変える」という主張は、そもそも測りようがない。実際、ムーラ・バンダの研究として見つかった新しい方の一本は、骨盤の臓器が下がる症状に対する効果を調べたもので、これは骨盤底の筋肉の働きの話になる。原典が言っていることと、研究が測っていることが、別のところを向いている。

二つ目は、単独で切り出せないのではないか、という見方。バンダは、本書の定義からして呼吸法と一緒に行うものだった。呼吸法ごとに指定が違うことも見たとおりで、組み合わせの中でしか出てこない。ところが研究というのは、効果を調べたい操作を一つだけ取り出して比べる形になりやすい。さきほどの二〇二五年の研究も、ウッディヤーナ・バンダを単独で実施している。取り出した時点で、本来のものとは別のことを測っているのかもしれない。

三つ目は、研究の設計が難しいのではないか、という見方。本来はクンバカ、つまり長く息を止める練習と組みになっている。人に長い保息をさせて何かを測る研究は、通すのが簡単ではないだろうと想像する。

四つ目は、名前が一つでも中身が複数あるのではないか、という見方。ウッディヤーナの場所が三通りに書かれていたのを見たあとだと、研究する側も、どれを指して調べればいいのかが決めにくいのではないかと思う。

どれももっともらしく聞こえるけれど、自分が確かめたわけではないので、思いつきの域を出ない。

レッスンに持ち帰るとしたら

結論めいたことは出せなかった。それでも、読む前と後で、自分のバンダの見え方は少し変わった。

いちばん変わったのは、バンダを単体で効かせる技として考えなくなったことだと思う。本書の定義は呼吸法との関係で引かれていたし、呼吸法の章での指定も、どの呼吸のときに何を締めるか、という組み合わせの形になっていた。バンダだけを取り出して上手くなる、という種類のものではないらしい。

そう思って自分の練習を見ると、ジャーランダラをやるのは呼吸法のパートで、息を保つ流れの中に入っている。すでに組み合わせの形で教わっていたことになる。名前を覚えていなかったので気づいていなかっただけで、置かれ方としては、本書が書いているものとずれていない。

逆に、アーサナの最中に「腹圧を高めて」と言われるものは、本書の意味でのバンダとは別のものとして置いておけそうだ。同じ引き出しに入れて考えなくていい、というのは、自分にとっては整理になった。

技法のやり方については、この記事では書かなかった。三つのバンダはいずれも、どこをどう締めるかという手順が本書には書かれているけれど、それを読んで試すものではないと思う。とくにジャーランダラは、喉の、脈の調整に関わる場所に圧力をかける技法として説明されていた。効くかどうか以前に、そういう場所を自己流で扱うものではないはずだ。

記事12でも書いたことだけれど、息を止める種類の練習には、体調や持病によって向かない場合がある。今回のように脈の調整に関わる場所を扱う技法なら、なおさらそうだと思う。気になることがあれば、自分で判断せずに、教わっている人に聞くところから始めるのがいいのだろうし、体のことで心配があるなら、そこは適切なところに相談する話になる。

そのあたりについては、原典の側にも言葉が置かれていた。スールヤベーダナの節には、努力といってもその人の能力を超えない範囲での努力だという注記があり、ウッジャーイーの節には、抵抗なく、快適にできるところまで息を保持し、とある。記事15で『ゴーラクシャ・シャタカン』を読んだときにも、能力を越えない範囲内とか、苦しくなる前に、という記述が出てきた。数値ではなく、限界の手前という形で、原典が自分で線を引いている。

「安全のために必ず行うもの」という記述は、そのまま受け取ると、やらない理由がなくなる書き方をしている。ただ、それを確かめた研究を自分は見つけられなかった。本がそう書いている、というところまでは分かる。その先は分からない。

分からないまま、たぶん来週も、先生がそう言えば喉を締めると思う。自分で判断してやっているわけではなく、見てもらいながらやっていることなので、そこは変えなくていい気がしている。ただ、なぜそれをやるのかと聞かれたら、以前なら何も答えられなかったところで、今なら「本にはこう書いてあって、確かめた研究は見当たらなかった」とは言える。それくらいの持ち帰り方が、いまの自分には合っている。