レッスンでは、アーサナを一通り終えたあとに呼吸法の時間があるのだが、そこで何をやるかは毎回同じではない。片鼻を交互に使うナーディーの浄化があり、短く強く吐き続けるカパーラバーティがあり、締めつけと訳されるバンダがあり、蜂の羽音のような音を伴うブラーマリがあって、ウッジャーイーをやる日もある。並ぶ顔ぶれも順番も、そのつど変わる。
しばらく、この時間を一つのまとまりとして受け取れずにいた。強く吐き続けるもの、ゆっくり左右に分けるもの、体を締めるもの、音を出すもの——使う場所も体感もまったく違うのに、全部が「呼吸法」という一つの括りに入っていて、何が共通しているのかが自分には分からなかった。
そこで、この時間に出てくるものが本の中でどこに置かれているのかを、一つずつ確かめてみることにした。結果は予想と違っていて、それらは同じ章に並んでいなかった。
四つの章に散らばっている
カパーラバーティは第一章にある。この章は体を洗う浄化法を扱う章で、六つの方法が挙げられている。消化器上部の浄化、大腸の浄化、鼻腔の浄化、消化器全般への刺激、目の浄化、そして最後に呼吸による浄化、つまりカパーラバーティ。著者はこれに「呼吸系の浄化」という訳語をあてている。息を使う技法なのに、呼吸法の章ではなく、体を洗う技法の側に入っている。
バンダは第三章にある。この章はムドラーを扱う章で、二十五種の技法が並ぶのだが、そのうち三つがバンダにあたり、本書の分類ではバンダはムドラーの一種ということになる。
そして蜂の羽音の呼吸法とウッジャーイーは、第五章の八つの呼吸法の中にある。本書はブラーマリに「至福の呼吸/ハチの羽音呼吸」という名前をつけていて、こちらは自分がやっているものと迷いようがない。
残るナーディーの浄化も第五章にあるけれど、八つの中には入っていない。八つの呼吸法が始まる手前に、それとは別に置かれている。しかもその手前には、練習にふさわしい場所、始めてよい季節、食べるべきものと避けるべきもの、といった条件が三十節近く並んでいて、浄化はその最後にある。現代のクラスで最初に習うことの多い技法が、原典では長い条件の列の末尾に来る。
一時間ほどの中でやっていることが、第一章と第三章と第五章から集められていた。しかも第五章の中でも、本体に入るものと、その手前に置かれるものが混ざっている。
本の側も、境界を越えている
これを見て、現代のクラスが原典の区分を無視して混ぜているのだろうか、と一度は思ったのだが、読み進めるとそう単純でもなかった。本書自身が、章の境界を何度も越えている。
まずバンダの定義がそうで、第三章には、単に体の形をとるだけのムドラーもあるが、呼吸法とともに為されるムドラーは特別にバンダと呼ばれる、と書かれている。つまりバンダとは、呼吸法と一緒に行うムドラーのこと。ムドラーの章にありながら、定義の中に呼吸法が入り込んでいる。呼吸法の時間にバンダが出てくるのは、本書の定義からすればむしろ当たり前ということになる。ついでに言えば、自分のレッスンではアーサナの最中にバンダが出てくることもあって、そちらは第二章と第三章をまたいでいることになる。
もう一つは第五章の側からの越境で、浄化の呼吸法を説明する節にこう書かれている。浄化の呼吸法には二種類ある、サマヌとニルマヌである。サマヌは短い音、つまりマントラとともになされ、ニルマヌはダウティ・カルマとともに為される。このダウティというのは第一章に出てきた浄化法のことで、続く節は「前に六つの浄化の呼吸法として述べたとおりだ」と第一章を参照させる。著者の解説はもっと端的で、ニルマヌは第一章で述べた六つの浄化法と同じだ、と書いている。
体を洗う六つの浄化法が、呼吸法の章では「浄化の呼吸法の一方のやり方」として呼び戻されている。 カパーラバーティはその六つの一つなので、呼吸法の時間にそれが出てくることも、本書の中に道筋がある。
章は分かれているのに、本文が何度もその線をまたいでいる。そうすると、章立てとは別のところに、これらをつないでいる何かがあることになる。
つないでいるのは、通り道だった
その何かが、ナーディーだった。気の道、と訳される語で、自分が毎回やっている浄化の呼吸法の名前にもなっている。
『ゴーラクシャ・シャタカン』の方に、かなり具体的な説明がある。まず出発点があって、おへその下、生殖器との間に球根のような場所があるとされる。カンダと呼ばれていて、全身の気と、その通り道の根っこにあたる。そこから通り道が延びていき、その数は全部で七万二千本とされる。
面白いのはその先で、続く節がすぐに絞り込みを始めることだった。七万二千本のうち千本に一本の割合で七十二本が重要とされ、さらにその中で最も重要なものが十本。そこまで絞ったところで、ようやく名前と担当する場所が与えられる。
その十本を並べてみると、偏りがはっきりしている。背骨の中央を通るスシュムナー、左の鼻と体の左を受け持つイダー、右の鼻と体の右を受け持つピンガラ。ここまでは知っていたけれど、残りの七本がどこを担当しているかは知らなかった。左目と左耳、右目と右耳、両目と右耳、左耳、口、肛門、生殖器。
臓器でも部位でもなく、体の出入り口が並んでいる。 最重要の十本を選ぶ基準が、そこに集中している。前回、五つの流れから生まれる動きとして、げっぷ、瞬き、涙、あくびが挙げられているのを読んで、生命力の話をしていたはずが急に顔まわりの話になる、と書いた。あれと同じところに、通り道の方も集まっている。この体系は、体の中に何があるかではなく、何がどこから出入りするかという形で体を記述しようとしているのかもしれない。
通り道の名前が、そのまま指示になる
ここまでは体の内側の説明として読んでいたのだが、第五章に戻ると様子が変わる。
本書は浄化の呼吸法について、『ハタヨーガ・プラディーピカー』と対照する表を置いている。方法の欄に書かれているのは、左の吸息から始め、左右交互に呼吸を繰り返す、ということ。これが二つの文献に共通する記述として並べられている。片方は十五世紀、もう片方は十七世紀とされる文献で、二世紀を隔てて、どちらから始めるかまで一致している。
本文の側はもっと直接的で、手順を説明する節には、左の鼻腔から息を吸う、とあり、語釈には、月、つまり左の鼻腔から、と書かれている。続く節の音写には、太陽のナーディーにあたる語が、息を吐くという語とともに現れる。
『ゴーラクシャ・シャタカン』が示していた対応が、そのまま手順になっている。 左はイダーで月、右はピンガラで太陽、中央はスシュムナーで火。体の内側の説明として読んでいた三つの対応が、第五章では「月から吸って、太陽の道へ吐く」という指示の形をとる。
しかもこれは、『ゲーランダ・サンヒター』だけの話ではなかった。対応を示していた『ゴーラクシャ・シャタカン』の方でも、その対応の節から三十ほど先に、左から吸って右から吐き、また右から吸って左から吐く、という節が続けて置かれている。対応を示した文献が、同じ文献の中で、その対応のまま呼吸の指示を書いていた。
そして本書は、その節の解説で系譜まで書いている。この経典に記された呼吸法は左右交互に呼吸を繰り返す方法で、それが後の十五世紀、十七世紀の経典において「アヌローマ・ヴィローマ(片鼻呼吸)」と呼ばれる浄化呼吸法として伝えられる、伝統的な呼吸法の基礎になっている、と。自分がレッスンでやっている片鼻の呼吸が、どこから来たものなのかを、本書は一行で説明していた。 探していた答えが、探していたのとは違う文献の側にあった。
そしてバンダの側にも、同じ語彙が使われていた。第三章には、主要なムドラーを目的別に四つへ整理した表がある。上向きの気を保つもの、下向きの気を保つもの、潜在力の覚醒に関わるもの、そして中心の通り道に気を通すもの。三つのバンダはこの中に配られていて、ジャーランダラは上向きの気を保つ方に、ウッディヤーナとムーラは中心の通り道へ通す方に入っている。締めるという操作も、通り道の語彙で説明されている。
残る蜂の羽音の呼吸法については、第七章に思いがけない対応があった。この章はサマーディを扱っていて、六つのサマーディとそれぞれの到達方法を並べた表が置かれている。その二番目、ナーダヨーガ・サマーディの到達方法として挙げられているのがブラーマリ呼吸法で、対応する語は「内なる音」だった。
先ほどの対照表を思い出すと、『ハタヨーガ・プラディーピカー』側の効果欄の最後に、体から内なる音が聞こえてくる、という記述があった。文献が違うので同じ主張として読むことはできないけれど、浄化の先に置かれた語と、蜂の羽音の呼吸法が向かう先の語が、同じところに出てくる。
自分がやっている技法は、体の使う場所も、体感も、本の中の置き場所もばらばらだった。それなのに、説明に使われている語彙だけが共通している。ナーディーという語が指しているのは、それらが全部、共通して参照している宛先なのだと思う。 前回、プラーナという語について、名詞というより動詞に近い扱いをされていると書いた。ナーディーの方は、どちらかといえば住所に近い。どこへ向けて息を入れ、どこから出し、どこを通しておくか——それを言うために名前がついている。
何が詰まっているのか
もう一つ、知りたかったことがあった。浄化というからには、何かが詰まっていることになる。
第五章の節は、こう書いている。気の通り道が不純物で詰まっているとき、気は通らない。そんなときにどうして呼吸法が達成するだろうか、どうして真実の知恵があるといえるだろうか。だから浄化の呼吸法をした後で、呼吸法は始めるべきである。
不純物、という語で止まっていて、それが何であるかはここでは説明されない。前回もそうだった。プラーナが何であるかは一行で済まされ、あとはどう振る舞うかが語られていた。ここでも同じで、詰まっているものの正体ではなく、詰まっていると何が起きないか、だから何を先にすべきか、という順序の話になっている。
ところが著者の解説が、そこに踏み込む。通常、気の通り道は不純物で詰まっているという。血液、リンパ液、重たい気持ちやバランスの取れない神経の働きの原因は、気の通り道の不純物が邪魔しているからである、と。
これを読んだとき、前回と同じものを見ている感覚があった。『ゴーラクシャ・シャタカン』の解説にも、気の通り道は現代科学でいえば血管であり神経の通り道である、と書かれた箇所がある。中央を通る道には、背骨の中枢神経にあたる、という注釈までついていた。一方で別の節では、この流れは血管よりも神経のネットワークよりも微細で、肉眼では確かめられない、とある。
同じことが、章をまたいでもう一度起きている。 一度きりの言い回しではなく、この本の一貫した書き方なのだと思う。そして今回の方が言い換えの範囲は広く、血液とリンパ液という体液に加えて、重たい気持ちという気分までが、同じ通り道の詰まりとして説明されている。血管や神経の話をしているはずなのに、引き受けている範囲がそこからはみ出している。
はみ出しているからこそ、別の節で言い直すことになるのではないか、という気はする。説明したい働きの範囲が、血管や神経という区分と最初から重なっていない。だから重ねてみせた直後に、いや、それよりも微細なものだ、と断りを入れることになる。ただしこれは自分の読み方で、本書がそう書いているわけではない。どちらが本書の立場なのかは、今回も決められなかった。
顔が正面を向いていない
ここからは自分の練習の話になる。
ナーディーの浄化はよくやる方だけれど、慣れないうちは、うまくいかないことの方が多かった。とくに呼気を長くしようとすると疲れてしまうことがよくあって、整えるつもりでやっているのに、終わったあとに疲労だけが残る。呼吸法は慎重にやらないといけない、というのは繰り返し言われていることでもあって、いまも簡単だと思ったことは一度もない。
それから、作法の細かいところを直され続けた。姿勢を正すこと、肩の力を抜くこと、鼻に手を添える位置。そして一番よく注意されたのが顔の向きだった。やっているうちにいつのまにか正面を向いていないらしく、自分では気づかないまま傾いた顔を、そのたびに指摘された。
本書を読んでいて少し驚いたのは、第五章の、浄化について述べる最初の節が、顔の向きを定めていることだった。 座をつくり、そこに座るときは顔を東か北に向けておくこと、そのうえで、はじめに気の通り道を浄化してから呼吸法を行うべきである、と。
もちろん、東か北という方角の話と、正面を向きなさいという指導は、同じことを言っているわけではないだろう。方角には方角の理由があるはずで、先生が言っているのは体の向きの話だと思う。それでも、顔をどちらに向けるかが技法の一部として扱われているという点では、二つは同じ場所を指している。何百年も隔てた文献と、いま自分が受けている注意が、同じ細部にこだわっている。
同じ章の少し先には、座って、体中に意識を向けながら、伝統を知る者のアドバイス通りに行うように、という節もある。解説は、意識を体の各部分に向けながら全体を観察し、それから浄化の呼吸法を始める、と言い換えている。姿勢を正し、肩の力を抜き、というのは、まさにこれを外から手伝ってもらっている状態なのだと思う。自分で読んで自分でやるものではない、という条件が、原典の側にも書かれている。
『ゴーラクシャ・シャタカン』の呼吸法の節には、読み過ごせない一文がある。息を保持する時間はその人の能力を越えない範囲内で行うこと、苦しくなる前に呼吸を行い、常に心地よさを保つ範囲で息を止めること。原文側の語にも「自分の力の範囲内で」にあたるものがある。数値ではなく、本人の限界の手前という形で定められている。
呼気を長くして疲れていた頃の自分は、たぶんこの範囲を出ていたのだと思う。もっとも、それを自分で見分けられるかというと、当時は分からなかったし、いまも自信はない。
ここで名前を挙げた技法について、この記事ではやり方を説明していない。息を長くしたり止めたり、体を締めたりする操作には、それぞれ避けるべき条件がある。自分の場合も、疲れてしまった原因が、伸ばしすぎだったのか、力が入っていたのか、そもそも段階が早かったのかは、いまでも分かっていない。分からないからこそ、見てもらいながら進めるものなのだと思う。
いまは、やり終えたあとに呼吸が落ち着くのが分かるし、それははっきりしている。ただ、何が起きてそうなっているのかは、やはり説明できない。
細部は伝わるが、理由は伝わらない
書きながら、一つの並びが気になっている。
本書の対照表は、二つの文献で方法が一致していると示していた。どちらから始めるか、どういう配分で息をするか、そこまで揃っている。ところが効果の欄を見ると、『ゲーランダ・サンヒター』側には「気の通り道の浄化」という一行しかない。『ハタヨーガ・プラディーピカー』側には、気が中央の通り道に入ること、深い瞑想状態が起こること、体が軽くなり、消化の火が起こり、顔や知性が輝き、体から内なる音が聞こえてくること、と並んでいる。手続きは同じなのに、それが何であるかの説明は、まるで違う分量で書かれている。
前に、二世紀を隔てた二つの文献が八つの呼吸法のうち六つまで共有していると書いたことがある。あのときも、技法は残るのに、それを説明する枠組みの方は書き手ごとに立て直されていた。同じことが、ここでも起きている。
そして、これは本の中だけの話ではない気がする。先生は細部を直し、顔が傾いていれば指摘するし、肩に力が入っていれば言われる。けれど、なぜその細部なのかを毎回説明されるわけではないし、こちらもその場では聞かない。手続きは精密に渡されるのに、理由は付いてこない。 原典が配分を指定しながらその根拠を書いていないのと、構造としては同じことが、いま自分のレッスンでも起きている。
書いていて気づいたことがある。渡されている細部の中に、像そのものが含まれていた。 浄化の呼吸法には三つの段階があって、本書はそれぞれに、何を思い描くかを指定している。くすんだ輝く風、おへそから上がる火、鼻先の月の輝き。息をどちらから入れてどちらへ出すかだけでなく、そのとき頭の中に何を置くかまでが、手続きの一部として渡されている。
先ほどの『ゴーラクシャ・シャタカン』の側も同じだった。左から吸うときには、伝説の乳海のように白く輝く月のエッセンスを想うべきである、とある。右から吸うときに想うのは、おへそにある燃え盛る太陽の炎。呼吸の段階に像を割り当てるという書き方が、二つの文献に共通している。
前回、自分は呼吸のときに筋肉の動きを思い描いていて、像を持っていると持たないときより深く吸えると書いた。像の中身は解剖学のもので、原典が言っていることとは出所がまるで違う。それでも、実践の最中に像を持つという構造の方は、原典の側にはっきり書かれていた。 そしてなぜその像なのかは、やはり書かれていない。
前回、効いた手続きが先にあって、それを実践の最中に鮮明にするための像が後から用意された、という順序を考えてみた。もしそうなら、残るのは手続きの方で、説明は時代ごとに付け替えられることになる。渡されている細部が、その残った方なのだとしたら、理由が付いてこないのは欠落ではないのかもしれない。
まだ模索している
「ナーディーとは何か」という問いに、本書はかなり具体的に答えてくれる。根っこがどこにあり、何本あり、そのうちどれが重要で、どこを担当しているか。プラーナのときのように一行で終わったりはしない。
そして、この語が何のために置かれているのかも、少し見えた気がする。章もばらばら、体の使い方もばらばらな技法が、それでも一つの時間の中に並んでいられるのは、全部が同じ宛先を持っているからなのだと思う。毎回メニューが変わっても、変わらずに参照されているものがある。呼吸法の時間が一つのまとまりに見えなかったのは、技法の側を見ていたからだった。
けれど、知りたかったことのすべてに届いたわけではない。なぜあの順番なのか。呼気と吸気の配分は何をしているのか。途中で息を止めることに、どういう意味があるのか。本書はそのいずれについても、順序と手続きを示すだけで、理由の方は書いていない。
正直に言えば、呼吸法については、いまも模索している最中だと思う。落ち着くのは分かるし、作法の細部が結果を変えるのも分かる。ただ、それが何であるかは説明できないし、説明できるようになる見込みも、いまのところない。
前回、プラーナという語との付き合い方について、定義を先に持たないまま扱い方の方から近づいていくのがたぶん正しい順序だ、と書いた。ナーディーについても同じことが言えそうで、ただ今回は、扱い方の方がずっと具体的に書かれていた分、自分が何を分かっていないのかの輪郭は、少しはっきりした気がする。分からないことが減ったわけではないけれど、どこが分からないのかは分かるようになった。それだけでも、読んだ甲斐はあったと思っている。