ヨガが目指す最終地点「サマーディ」とは何か

先生についてヨガを習っていると、今の段階で必要なことを、ただ繰り返す時間が多い。同じアーサナ、同じ呼吸法を、レッスンのたびに少しずつ調整しながら重ねていく。派手な進歩を感じる瞬間はそう多くなくて、むしろ地味な反復がほとんどだ。

『ゲーランダ・サンヒター』を最初から読み進めていくと、その七章の一番最後にサマーディが置かれていることに気づく。浄化、アーサナ、ムドラー、感覚の制御、呼吸法、瞑想と進んできて、最後にたどり着くのがサマーディという構成だ。以前の記事で、七章という体系を知ることで実践の見え方の解像度が上がったと書いたけれど、その体系の一番奥にあるものが何なのかを、今回は少し立ち止まって考えてみたかった。

サマーディの手前、第六章では瞑想(ディヤーナ)が扱われている。ここで面白いのは、瞑想の対象が一段階ずつ移っていく構成になっていることだ。最初は形のある具体的な対象への瞑想から始まり、次に光に関わる瞑想、そして最後により微細な、あるいは形を超えた対象への瞑想へと進む。つまり瞑想そのものが、目に見えるものから徐々に手放していくプロセスとして描かれている。第七章のサマーディは、その延長線上に置かれている。

第七章は、深い瞑想とは何かという話から入り、続いて「本来の意識」「本来の自分自身」というテーマが置かれる。つまりサマーディは、何か特別な超常的能力を身につけることではなく、普段の自我や思考によって覆われている自分の本来のあり方に立ち返る、という方向で語られている。本書がまとめている説明によれば、サマーディとは個と全体が一致し、完全な一体感を得ている状態だとされる。自分と世界を隔てている境界のようなものが薄れて、両者が一つのものとして感じられる、という理解でよいのだと思う。

そのうえで本書は、そこに至る道筋を一つに絞らない。第七章の五節と六節にかけて、サマーディへ至る道が六つ示される。本書はこれを「ラージャ・ヨーガの6つの方法」と呼んでいる。

1. ディヤーナヨーガ・サマーディ — シャンバヴィー・ムドラーによる 2. ナーダヨーガ・サマーディ — ブラーマリ呼吸法による 3. ラサナンダ・サマーディ — ケーチャリー・ムドラーによる 4. ラヤシッディ・サマーディ — ヨーニ・ムドラーによる 5. バクティヨーガ・サマーディ — 心を開き、献身することによる 6. マノー・ムールッチャー・サマーディ — 限界まで息を止め、心を無にすることによる

この六つが一度に並べられるのではなく、二段階で示されるところが面白い。五節がまず四つを挙げる。三つのムドラーと一つの呼吸法という、いずれもハタヨーガの身体技法に結びついた道だ。続く六節が、五つ目に献身(バクティ)、六つ目にマノー・ムールッチャーを加えて、六つで揃う。身体技法から入る道と、そうでない道が、同じ枠の中に並んでいることになる。

到達の仕方が一つに決められているわけではなく、いくつもの入り口が示されている、という構成だ。そして章の終盤では、自我や所有という意識からの解放、そこから自由に至る道が語られて締めくくられる。複数の道筋を通ってサマーディへ向かい、最後に自我からの解放へたどり着く。これが、本書がサマーディについて語っている大まかな流れだ。

この構成を知っただけでも、サマーディを単純な達成指標やリラックス状態のようなものとして考えるのは、あまり正確ではないのだろうと感じた。

正直に言うと、これらの記述を読んで内容を理解できたという実感はあまりない。自分がまだ経験したことのない状態について、言葉だけで分かった気になるのは難しい。ただ、それは今回に限った話ではなく、以前『ヨーガ・ターラヴァリー』を読んだときにも感じたことだった。今回改めて感じたのは、理解できないということ自体は、それほど問題ではないのかもしれない、ということだ。

七章の一番奥にサマーディが置かれていると知ったからといって、「早くそこに到達しなければ」とはあまり思わなかった。むしろ自分にとって大事だったのは、ヨガという実践がどこまで続いているのかを、行き先として知れたことの方だった。目的地を知ることと、目的地を急いで目指すことは、別の話だと思う。目的地の存在を知らないまま歩くのと、存在を知った上で今の一歩を歩くのとでは、同じ反復でも意味合いが変わってくる。

先生について習っていると、この感覚はより具体的になる。今の段階で必要なことを繰り返すことには、それ自体で意味がある。先の段階に何があるかは、本を読めば知識として先取りできる。けれど、知識として先を知っていることと、実践としてそこまで実際に進んでいることは、まったく別の話だ。むしろ先を知っているからこそ、今ここでやるべき反復を焦らずに続けられる、という面もあるように思う。

『ゲーランダ・サンヒター』は七章という構成を通じて、浄化から始まりサマーディへ至る全体の流れを見せてくれる。でもその全体を見せることの意味は、読者を急がせることではなく、むしろ逆で、今どの段階にいて、次に何があるのかを知った上で、今の反復に落ち着いて取り組めるようにすることなのかもしれない。最終地点が見えているからこそ、今の一歩を急がずに歩ける。そういう読み方が、自分には一番しっくりきた。