『ゴーラクシャ・シャタカン』を読んでいて一番印象に残ったのは、ナーディやプラーナについての記述だった。
この文献はヨーガの実践を六支という六つの段階として示している。第4節「ヨーガの6つの枝」に挙げられているのは、アーサナ(姿勢)、プラーナーヤーマ(調気法)、プラッティヤハーラ(感覚の調整)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(瞑想の深まり)。身体の姿勢から始まり、最終的にサマーディへと至る一続きの流れだ。
面白いのはその順番だった。アーサナの次に来るのは、いきなり感覚の制御や瞑想ではない。ナーディ(気の通り道)やプラーナ(気・生命力)に関わる段階が挟まっている。
この段階を指す原文の語は「プラーナ・サンヤーマ」で、著者はこれに「プラーナーヤーマ(調気法)」という訳語をあてている。呼吸法という日本語から想像するのは息の出し入れの技術だけれど、原典が名指しているのはプラーナ、つまり気の方だ。訳語を見ているだけでは呼吸の技術に見えるものが、原文では気を扱う段階として置かれている。
アーサナは外から見てもわかる。どんな姿勢を取っているか、体がどう動いているか、他人にも自分にも観察できる。けれど、ナーディやプラーナが扱っているのはそこではない。呼吸や身体の内側で起きているとされる働きに意識を向けていく段階だ。
つまり六支の構成は「外から見える身体」からいきなり「見えない心」へ飛ぶわけではない。その間に「身体の内側で起きていることに意識を向ける」というもう一段階が用意されている。アーサナで体を動かすこととダーラナーやディヤーナで心を集中させることの間に、呼吸や気というちょうど中間にあるものを置いている構成だ。
これが興味深かった。普段の練習では、アーサナをやって、呼吸法をやって、瞑想をやって、と一通りこなしてはいたけれど、それぞれを独立した項目としてこなしている感覚に近かった。六支の構成を知ってからは、呼吸法の位置づけが少し変わって見える。それは、体を動かす練習と心を静める瞑想をつなぐための意図的に置かれた橋のような段階なのだと思う。
実は、今のところ実践の中でこの「切り替わり」をはっきり感じられているわけではない。ナーディやプラーナについてもまだ知識として理解し始めたばかりだ。呼吸をしているときに、自分の中で何かが「外から内へ」切り替わる感覚があるかと言われれば、まだそこまでの実感はない。
それでも、これは急ぐ話ではないと思っている。本を読んで、六支という構造とその中でのナーディ・プラーナの位置づけを知識として持っておく。そのうえで実践を続けていけば、いつかその知識が自分の感覚と結びつく瞬間が来るかもしれない。今はまだ、地図を手に入れた段階で実際にその道を歩いて地図の意味を体で確かめるのはこれからだ。
ヨガの実践を6つのステップとして捉えると、アーサナも瞑想もそれぞれ独立した項目ではなく一つの流れの中の駅のように見えてくる。ナーディやプラーナはその中でも一番地味で一番見えにくい駅かもしれない。でもその駅を経由しない限り、体を動かすことから心を静めることへはたぶんうまくたどり着けないのだと思う。
以前の記事で、アーサナから呼吸法、アウェアネス、瞑想までを一つの流れでやりたいと書いた。あのときはまだ漠然としたイメージだったけれど『ゴーラクシャ・シャタカン』の六支を知って、その流れの中に自分がこれまであまり意識してこなかった段階があったことに気づいた。呼吸法を単に「息を整える練習」としてではなく、外の身体から内の身体へ意識を移していくための明確な一段階として捉え直す必要がありそうだ。
知識が先で実感が後から追いついてくるのは学習の常。地図を片手に目的地へ向かう、その過程を楽しみたい。