レッスンの呼吸法のパートでは、息を止める時間がある。吸ったあとにしばらく止めることもあれば、吐いたあとに止めることもあった気がする。どちらの場合も、止めている間ははっきり「いま止めている」という感覚があって、ぼんやりやり過ごせる種類のものではない。
ただ、習い始めた頃からそうだったわけではない。最初は吸うことと吐くことだけで、止める工程はあとから加わってきた。自分の中では、息を止めるのは中上級者のやることというイメージがずっとあって、だからこそ、先生の注意をよく聞いて取り組むものだと思っている。
その注意というのが、苦しくなったらやめる、というものだ。そして実際、自分は結構やめている。止め始めて、苦しくなってきて、そこで吸ってしまう。とくに吐いたあとに止める方がきつくて、やめる回数もそちらの方が多い。
そういう練習を続けていると、ときどき素朴な疑問がわく。呼吸を止めるというのは、そもそも体にいいことなのだろうか。息が止まるというのは、ふつうは困った事態のはずだ。それをわざわざ練習の中でやっているのはなぜなのか。今回はそれを本書で読んでみた。
本書では、止めることが呼吸法の中心にある
記事12で『ゲーランダ・サンヒター』の呼吸法の章を読んだとき、八つの呼吸法が息の出し入れの一覧ではなく、保持、つまり息を止めることの方に重心を置いているらしい、ということを書いた。記事18では、八つの呼吸法を列挙する節の解説に、呼吸法のことをクンバカということがある、という注記がついているのを見た。クンバカは息を止めることを指す言葉なので、本書の言い方でいえば、呼吸法とはほとんど止めることの別名ということになる。
自分のイメージでは、止めるのは呼吸法の中の上級編だった。本書の側では、止めることは例外ではなく、呼吸法の中心に置かれている。この二つのあいだには、はじめ、ずれがあるように思えた。
ただ、よく考えると、このずれはそれほど矛盾していないのかもしれない。中心にあるものだからこそ、いきなりは扱わずに、段階を踏んであとから入れていく、ということは十分ありうる。本書の同じ章にも、はじめに気の通り道を浄化する方法をしてから、呼吸法は為されるべきである、という一節があって、順番そのものは原典の側でも決められている。自分のレッスンでも、先生は呼吸を整える練習のことを「浄化」と呼んでいて、そこから入っていく。
そこまでは納得できた。ところが、止めることの中身を一つずつ見ていくと、話がもう少しややこしくなってきた。
同じ名前でも、止めたり止めなかったりする
いちばん分かりやすかったのは、ブラーマリという呼吸法だった。蜂の羽音の呼吸、と訳されている。自分のレッスンのメニューにも入っていて、名前は覚えていなくても、あの「ん」と音を出し続ける呼吸のことだというのは分かる。
本書が訳している『ゲーランダ・サンヒター』のブラーマリを読んで、まず驚いたのは、そこに息を止める工程が入っていたことだった。静かな場所で両耳をふさぎ、吸息と保息の練習をすべきである、と書かれている。
もう一つ驚いたのは、蜂の羽音の扱いだった。『ゲーランダ・サンヒター』のブラーマリでは、蜂の羽音は自分で出す音ではなく、聞こえてくる音として出てくる。耳をふさいで練習していると、体の内側から音が立ち上がってくる。はじめはコオロギの鳴き声やフルートのような音で、やがて雷、蜂の羽音、シンバル、ベル、ゴング、太鼓のような大きな音になっていく。その音は心臓のあたりから立ち上がるものだとされ、こうしてブラーマリ呼吸法を達成することは、深い瞑想の境地であるサマーディを達成することでもある、と続く。
一方で、本書の解説は『ハタヨーガ・プラディーピカー』のブラーマリも紹介している。そちらでは、吸う息も吐く息も、蜂のような音を出すように練習する、とされている。自分がレッスンでやっているのは、どちらかといえばこちらに近い。
並べてみると、こうなる。
– 『ゲーランダ・サンヒター』のブラーマリ — 耳をふさぐ。吸ったあとに止める。音は内側から聞こえてくる – 『ハタヨーガ・プラディーピカー』のブラーマリ — 息で蜂のような音を出す – 自分のレッスンのブラーマリ — 音を出す。耳はふさぐときもある。息は止めない
同じ「ブラーマリ」という名前なのに、音が外へ向かうか内から来るかが逆になっていて、止めるかどうかも違う。自分がやっているものは、止めない版ということになる。
似たことは、カパーラバーティにもあった。これも自分の呼吸法のパートに入っていることがある技法で、『ゲーランダ・サンヒター』の第一章では、六つの浄化法の一つ、呼吸系の浄化として出てくる。記事07で読んだところだ。ところが同じ本の呼吸法の章に進むと、バストリカーという呼吸法の説明に添えられた表の中で、カパーラバーティが、保息を含む組み合わせの前半として出てくる。単独では浄化の技法で、組み合わされると保息の前段になる。速い呼吸と保息を続けて行う組み合わせは、なおさら読んで試すものではないと思う。
名前を聞けば何をするかが決まる、というほど単純ではないらしい。とくに、息を止めるかどうかは、名前からは読み取れない。
止め方も、ひと通りではない
止める工程が入っている呼吸法どうしを比べても、止め方が揃っているわけではなかった。
まず、止めるのが吸ったあとか、吐いたあとかが違う。サヒタ・クンバカの節には、息を吸った後、そしてその息を止める前に、という書き方がある。ブラーマリも吸ったあとに止める。一方、本書がウッディヤーナ・バンダを説明している箇所では、『ハタヨーガ・プラディーピカー』に拠りながら、息を吐き切ったあとの保息の中で行う形として説明している。自分がきついと感じる方の、吐いたあとの止め方も、本書の中にちゃんと出てくる。
次に、止めるときに体のどこかを締めるかどうかも違う。記事18で見たとおり、スールヤベーダナやウッジャーイーでは喉を締めることが指定され、サヒタ・クンバカでは腹の方が指定されていた。今回読んだブラーマリには、締める指定が出てこない。
もう少し意外だったのは、ムールチャーという呼吸法だった。見出しは「気絶の呼吸法」で、解説によれば、ムールチャーは意識を失うという意味だという。八つの中でいちばん物騒な名前だと思う。ところが訳文を読むと、快適なところまで、息を保持し、心を眉間に集中させる、と書かれている。止める長さの目安は、気を失うほどではなく、快適さの側に置かれていた。解説は、ここでいう意識を失うことを、自我意識の一時的な喪失ともいえる、と言い換えている。ただ、原典が快適なところまでと書いていることと、この呼吸法が安全かどうかは別の話で、そこは本書の記述からは分からない。名前の物騒さが、言い換えで消えるわけでもないと思う。
そして最後のケーヴァリー・クンバカ。本書の見出しは、十三の節すべてが「自然な止息」となっている。自然に息が止まる、という言葉からは、努力しなくても呼吸が静まっていく状態を想像していた。ところが中身を読むと、呼吸に合わせてマントラを唱える方法、両鼻から吸ったあとに止めてマントラを唱える回数で長さを数える方法、一日に何回、どの時間帯に行うか、といったことが書かれている。そして一つの節は、はっきりと、意識的に為されるべきである、と述べていた。
見出しは「自然な」なのに、中身は意識的な練習になっている。本書の本文で「自然」という語が出てくるのは、体から自然に吐き出される息の長さ、といった、ふだんの呼吸を指すところだった。見出しの「自然な」がそれと関係しているのかもしれないけれど、本書はそこを説明していない。自分にはまだ分からないところとして残しておきたい。
止めることは、呼吸法に重ねる層なのかもしれない
ここまで読んで、自分の中で「息を止める練習」というひとまとまりの像がほどけてきた。
止めることは、独立した一つの技というより、いろいろな呼吸法の上に重ねる層のようなものとして扱われているのではないか。そう考えると、見てきたことがおおむね説明できる気がする。ブラーマリは、層を重ねた形でも重ねない形でも伝わっている。カパーラバーティは、単独では浄化の技法で、組み合わせの中では層の下地になる。ムールチャーは、層そのものが中心に来ている。重ねるとき、吸ったあとに置くか吐いたあとに置くか、どこかを締めながら置くかも、呼吸法ごとに違う。
これは、自分がレッスンで感じていたことともつながる。最初は吸うことと吐くことだけで、止める工程があとから加わってきた。あれは、自分の呼吸法の上に一枚ずつ層が重ねられていく過程だったのかもしれない。自分のブラーマリにはまだその層がないけれど、練習が進めば加わるのかもしれない。ここは先生がそう言ったわけではなく、自分の見込みにすぎない。
そう見ていくと、この記事の題名にした問いの方が、少し違って見えてくる。「呼吸を止める練習は体にいいのか」と聞くとき、止めることを一つのものとして扱っている。けれど、何の上に重ねるのか、どこまで重ねるのか、誰が見ているのかで中身が変わるのだとしたら、止めることだけを取り出して、いいか悪いかを問うのは、そもそも答えにくい問いなのかもしれない。
体にいいのか、調べた範囲で
とはいえ、題名に掲げた以上、現代の研究がどうなっているのかは見ておきたかった。記事18のときと同じように、医学文献のデータベースであるPubMedで調べてみた。
結果から言うと、ヨーガの保息を正面から扱った研究は、自分が調べた範囲ではあまり多くなかった。「クンバカ」で検索すると十二件。ヨーガや呼吸法と、息を止めることを表すいくつかの語を組み合わせても、三十六件だった。呼吸法という語だけなら六百件を超えるので、その中で止めることを主題にしたものは一部ということになる。ちなみに「息を止める」を表す英語だけで検索すると九千件を超えるけれど、そのうち三分の二ほどは、放射線治療や、CT・MRIなどの検査のときに息を止めてもらう場面の研究で、ヨーガとは関係がない。
件数よりも気になったのは、二〇二二年に出た一本の論文だった。バストリカー、ブラーマリ、カパーラバーティという三つの呼吸法について、『ハタヨーガ・プラディーピカー』と『ゲーランダ・サンヒター』の記述と、PubMedに収録された七十三件の研究のやり方を比べたものだ。姿勢、時間帯、呼吸の深さや速さ、息を止めるかどうか、どちらの鼻を使うか、といった項目を並べていくと、文献と研究のあいだでやり方に違いがあった。ブラーマリについては、呼吸の各局面の長さの比に違いがあったという。
そして抄録の結びに、こういう趣旨のことが書かれていた。やり方の違いは得られる生理的な効果に影響しうるし、研究ごとにやり方が違うと、研究をまたいで効果をまとめることが難しくなる。
これは、ここまで本書で見てきたことと、そのまま重なっているように思えた。同じ名前の呼吸法でも、文献によって、教室によって、研究によって中身が違う。研究する側も、そのせいで効果をまとめにくいと自分たちで書いている。止めるかどうかまで含めて揃っていないのだとしたら、「止めることは体にいいか」という問いに研究がまとまった答えを出しにくいのも、無理はない気がする。
止めている最中の体を測った研究も、いくつか見つかった。そのうちの一本は、健康な二十人に四種類の呼吸法をしてもらい、その最中の血圧や心拍を連続して測ったもので、息を止める練習の最中には、血圧が上がり、心臓が一回に送り出す血液の量が下がった、と報告している。ただ、人数は少なく、対象は健康な人だけで、抄録からはどういう止め方をしたのかも分からない。これをもって体にいいとも悪いとも言えるものではない。自分が受け取れるのは、止めている間、体の中では確かに何かが動いている、というところまでだと思う。
念のため書いておくと、件数は検索の仕方で変わるし、自分が読んだのはどれも抄録だけで、全文は読んでいない。研究がないと言えるわけではなく、自分が調べた範囲ではこうだった、という話になる。
止める練習は、やめどきを知る練習でもある
結局、呼吸を止める練習が体にいいのかどうかは、この記事では答えを出せなかった。その代わりに、読み進めるうちに目についてきたものがある。原典が、止める長さの限度をどう書いているか、だった。
自分が本書で見た範囲で、それは少なくとも四か所ある。『ゴーラクシャ・シャタカン』の呼吸法の節の解説には、その人の能力を越えない範囲内で、苦しくなる前に、常に心地よさを保つ範囲で、とあった。これは記事15でも引いた。『ゲーランダ・サンヒター』では、スールヤベーダナの節に、その人の能力にあわせ、という語があり、ウッジャーイーの節には、抵抗なく、快適にできるところまで、とある。そして今回読んだムールチャーにも、快適なところまで、と書かれていた。
どれも、何秒止めなさい、という書き方ではない。原典の中には止める長さを数で指定する箇所もあるけれど、それとは別に、限度を本人の能力や快適さの側に置く書き方が、繰り返し出てくる。
先生の注意も、同じ方向を向いている。苦しくなったらやめる。ただ、並べてみると、細かいところが一つだけ違っていた。先生は苦しくなったらと言い、原典の解説は苦しくなる前にと書く。原典の方が、線を少し手前に引いている。どちらが正しいという話にするつもりはないけれど、線の位置としては、原典の方が慎重な側にあるのは確かだと思う。
ここで、冒頭に書いた、自分が結構やめているという話に戻ってくる。苦しくなったら吸うのは、先生にそう言われているのだから当然のことで、これまで特に考えることもなくそうしてきた。けれど、止めることが呼吸法に重ねる層なのだとしたら、層はいつでも外せるものでもある。苦しくなってきたところで吸うのは、練習から外れることではなく、重ねた層をいったん外すという、練習の中に最初から含まれている操作と見ることができるのかもしれない。原典が限度を数ではなく本人の能力や快適さで書いているのも、その外すタイミングを本人に委ねる書き方として読める気がする。
そう考えると、息を止める練習は、同じくらい、やめどきを知る練習でもあるのだと思う。どこまで止めるかを自分の感覚で測り、そこで外す。その判断を繰り返すことの方に、自分の練習の中身があるのかもしれない。
ただし、これは先生が見ている場で、先生に教わった形の中でしている判断だ。本を読んで一人で始めた練習で、自分の感覚だけを頼りに限度を探る、という話とは違う。それに、苦しさとは違う感じ、たとえば頭がくらくらするとか、ぼんやりしてくるといったことがあれば、それはやめどきを測る材料というより、そこでやめて先生に伝える話だと思う。
この記事では、どの呼吸法も手順には触れなかった。止める長さの比や回数も書いていない。記事12や記事18でも書いたことだけれど、息を止める種類の練習には、体調や持病によって向かない場合がある。とくにムールチャーのように名前からして物騒なものや、吐いたあとに止めるきつい形は、読んで試すものではなく、見てもらいながら教わるものだと思う。気になることがあれば、自分で判断せずに教わっている人に聞くところから始めるのがいいのだろうし、体のことで心配があるなら、そこは適切なところに相談する話になる。
自分はたぶん、次のレッスンでも、苦しくなってきたら吸うと思う。やることはこれまでと変わらない。ただ、それが練習の中でどういう位置にあるのかは、読む前より少し言葉にできるようになった。