心を静めてたどり着く境地とは — 『ヨーガ・ターラヴァリー』を読む

三典籍の中で、一番手こずったのは『ヨーガ・ターラヴァリー』だった。

比較的短い文献で、バンダや呼吸、感覚と心の静まり、瞑想、そして最終的な境地までが少ない節数の中に凝縮されている。他の二つに比べれば、読み終えるのにそう時間はかからない。けれど読み終えたときに「理解できた」という感覚がほとんどなかった。

サマーディやナーダについて書かれている。言葉としては追えるけれど、自分がまだ経験として知らないものを言葉だけで理解するのは難しい。サマーディがどういう境地なのか、ナーダがどういう音、どういう感覚を指すのか、文字を追うことはできてもそれが指し示している当のものが自分の中にまだない。

これは自分の読解力の問題かと思ったので、もう一度読めば今度こそ腑に落ちるかもしれないと思って読み返してみた。でも、読み進めるうちにそういう話ではない気がしてきた。

どんな分野でも専門用語や概念は、それを実際に経験した後の方がはるかに具体的に理解できる。スポーツのコツも仕事の勘所も、説明されて「わかった気になる」ことと実際にできるようになることの間にはいつも距離がある。ヨーガの原典もたぶん同じ構造を持っている。

たぶん、この本は経験のない人間が一読して理解できるようには書かれていない。書かれているのは、実践を積んだ人が自分の経験と照らし合わせながら読むことを前提にした言葉なのだと思う。だとすれば、今の自分が理解しきれないのは当然の話でもある。

理解できなかったこと自体は少しもどかしい。でも今はそのもどかしさの方が印象に残っている。「わからなかった」という記録は「わかった」という記録より後で役に立つのではないかと思う。今わからないことをわからないまま書き留めておけば、後で読み返したときに自分がどれだけ変わったかを測る目盛りになる。

実践を重ねた後にこの本を読み返したら、今とはまったく違う読み方になるのではないか。そんな気がしている。同じ言葉がその時には違う意味で立ち上がってくるかもしれない。

「心を静めてたどり着く境地」というタイトルをつけたけれど、今の自分にわかるのはそこまでで、境地そのものはまだわからない。たぶんそれはこの記事を書くことでどうにかなる話ではなく、実践を重ねていくことでしか近づけないものなのだと思う。

もしこれから三典籍を読む人がいたら、一読ですべてを理解しようとしなくていいと思う。わからないところはわからないままにしておいて後でまた戻ってくればいい。