ヨガのレッスンといえば、多くの場合アーサナ(ポーズ)を取るというイメージが強いはず。
けれど自分はヨガを集中力を高めたり自己変容を進めていくプロセスとして捉えたいと思っている。だから、アーサナだけでなく呼吸法・アウェアネス・瞑想までを一つの流れとして練習したい。
この考えを持つようになったのはレッスンを受けたり先生から座学の講義を受けたりする中でのことで、ポーズの練習と並行してその背景にある考え方や体系についても教えてもらう時間があり、そうした話を聞くうちにポーズを取ること自体よりもそこからどうつながっていくかの方に関心が向くようになった。
この本(向井田みお『やさしく学ぶYOGA哲学 ハタヨーガ 基礎と実践』)を読むと、三典籍——『ヨーガ・ターラヴァリー』『ゴーラクシャ・シャタカン』『ゲーランダ・サンヒター』——のいずれもが、呼吸や感覚の扱いを経て瞑想へ進んでいく段階の体系を持っていることが分かる。自分が「一つの流れとして練習したい」と思っていたことと、ほぼ同じ形がそこにあった。
驚いたわけではない。考えてみれば当然のこと。先生が教えてくれる内容もこの本の内容も元をたどれば同じ原典に行き着く。だから重なるのは偶然でも発見でもなく当たり前のことだった。
それでも、その「当たり前」を実際に文字で確認できたことには意味があったと思う。自分が漠然と「こうしたい」と感じていたことが、個人的な好みや思いつきではなくもともと原典の中に組み込まれていた順序だったとわかったからだ。
むしろ意外だったのは、その流れの中でアーサナが占める位置が、文献によってずいぶん違っていたことの方だった。『ゲーランダ・サンヒター』は七章のうち一章をまるごとアーサナにあてて32種を並べているし、『ゴーラクシャ・シャタカン』も六支の最初にアーサナを置いている。ところが『ヨーガ・ターラヴァリー』には、アーサナを扱う節が一つもない。全29節は音への瞑想から始まって、バンダ、呼吸と保息、体の中を流れるとされる気、感覚の静まりを経て、瞑想の深まりへと進んでいく。ポーズの話が一度も出てこないまま、最後の「瞑想の最終境地」までたどり着いてしまう。
ハタヨーガの原典とされる文献の中に、ポーズを一節も扱わないものがあるという事実は、「ヨガはポーズだけじゃない」という言い方よりも、もう一段強いことを言っているように思う。ポーズは数ある入り口の一つであって、必ずそこから始めなければならないものですらない、ということだからだ。
アーサナだけを取り出して練習することもできるし、それはそれで意味がある。けれど自分がやりたいのは、アーサナを入り口として呼吸法・アウェアネス・瞑想へと進んでいくプロセスの方だ。それは思いつきではなく、少なくとも三典籍のうち二つが取っている順序に近いものだったのかもしれない。
ヨガはポーズだけじゃない、とよく言われる。その主張を改めて自分の中で確認できたことは、結構大事な気がする。