プラッティヤハーラは瞑想でやるのか、呼吸法でやるのか — 三つの原典で中身が違った

プラッティヤハーラという言葉は、ヨーガの段階を説明するときによく出てくる。感覚を外の対象から引き戻すこと、という説明をよく見かけるし、記事11で『ゲーランダ・サンヒター』の第四章を読んだときも、たしかにそういう話だった。ただ、あらためて自分の練習に引きつけて考えようとすると、素朴なところでつまずいた。プラッティヤハーラというのは、レッスンのどこでやっているものなのだろう。瞑想の時間にやるものなのか、それとも呼吸法の後半に入っているものなのか。

感覚を引き戻す、という動きだけを取り出せば、思い当たる場面はいくつもある。アーサナの最中には、先生から体の反応を観察しながら動くようにと言われていて、気がそれたら体の方へ意識を戻している。シャヴァーサナでも、体のどこかが気になり始めたら、それを眺めるところへ戻っていく。瞑想の時間には、それた意識を呼吸へ戻す。逆に呼吸法のパートは、そもそも呼吸に集中しているので、わざわざ引き戻すという感じがあまりない。そう並べてみると、どこにでもある気もするし、どこか一つに決まっている気もしない。

そこで今回は、本書が扱う三つの原典で、プラッティヤハーラがどこに置かれ、何を指しているのかを見比べてみることにした。結論を先に書いてしまうと、三つの原典は、この言葉でそれぞれ違うものを指していた。

『ゲーランダ・サンヒター』では、呼吸法の前に置かれる

まず、記事11で読んだ『ゲーランダ・サンヒター』から振り返っておく。この原典は七つの章でできていて、浄化法、アーサナ、ムドラーのあとの第四章がプラッティヤハーラ、第五章が呼吸法になっている。順番でいえば、プラッティヤハーラは呼吸法より前にある。

中身は、記事11で書いたとおり、想像していたよりずっと強い調子のものだった。休まない心が動き回るときはいつも、力ずくでも、自分の意志のコントロール下に引き戻すべきである、と訳されている。視線が向かうところには心も一緒に動いていくので、外へ向かう目の感覚を自分の意志で引き戻すべきだ、という節もある。感覚を遮断するのではなく、外へ出ていったものを連れ戻す。その連れ戻す力は、意志の側にある。

一般によく聞くプラッティヤハーラの説明と、いちばん素直に重なるのはこの原典だと思う。記事11では、この「力ずくで」と、先生の「観察しなさい」との手触りの違いが気になって、答えを出さないまま終えた。今回はそこには深入りせず、ほかの二つの原典に進む。

『ゴーラクシャ・シャタカン』では、呼吸法の後に来て、中身が変わる

『ゴーラクシャ・シャタカン』は、冒頭近くの第四節でヨーガを六つの枝に分けていて、その並びはアーサナ、呼吸法、プラッティヤハーラ、集中、瞑想、サマーディになっている。本文でも、呼吸法と食事や習慣についての節がひとしきり続いたあとに、プラッティヤハーラの節が出てくる。こちらでは、プラッティヤハーラは呼吸法の後にある。『ゲーランダ・サンヒター』とは前後が逆になっている。

置き場所の違いだけなら、まだ話は簡単だった。驚いたのは、そこで語られている中身の方だった。

プラッティヤハーラを扱う節の最初にあたる第五十四節は、アーサナによって病を滅ぼし、呼吸法によって罪を滅ぼし、プラッティヤハーラによって心を邪魔する障害が取り除かれる、という一節で、ここでは訳語も「感覚の調整」になっている。病や罪を滅ぼすというのは原典の主張で、この記事が効き目を請け合うものではないけれど、少なくともプラッティヤハーラの部分は、感覚の話として読める。

ところが、次の第五十五節は様子が違う。訳文は、おへそのあたりにある太陽のエネルギーが、喉の奥、本書の言い方では咽頭鼻腔部にある月のエネルギーのエッセンスを引き寄せる、と始まり、この太陽に保持されているエネルギーが、プラッティヤハーラといわれる、と続く。訳語は相変わらず「感覚の制御」なのに、書かれていることは感覚の話に見えない。

その解説で、著者ははっきりとこう書いていた。

> ヨーガの古典である『ヨーガスートラ』に記される"プラッティヤハーラ"とは、体に入れる物(アーハーラ)を制御する(プラティ)という意味で、感覚のコントロールという意味になります。しかし、ハタヨーガの経典では同じ"プラッティヤハーラ"という言葉でも意味が違います。

そして、ハタヨーガでプラッティヤハーラという言葉は、生命力を保つという意味で解釈する、と続ける。本書の説明では、ハタヨーガの身体観には、喉の奥に生命のエッセンスが宿っていて、そこから滴のように少しずつこぼれ落ちている、という考え方がある。なにもしなければ、その滴はお腹に落ちて、お腹に宿る火に焼かれてしまい、人はすぐに老いてしまう。その滴を体に保っておくための技術を、ハタヨーガではプラッティヤハーラと呼ぶのだという。これは現代の解剖学や生理学の説明ではなく、本書が紹介しているハタヨーガの身体観の話として読んでおく。

次の第五十六節は、見出しそのものが「生命力を保つ(プラッティヤハーラ)」になっている。訳文は、月の輪からやってきた一人の女性が二人の男にもてなされ、二人とは違うことをする三番目の男がその女性と深く結ばれれば、男は永遠に老いと死から自由になる、という詩で、解説によれば、二人の男は月のエッセンスと太陽のエネルギー、三番目の男はヨーガの実践者のことだという。そうしてエネルギーを浪費しないようにする技術によって、人は死すら超えることができる、というのがハタヨーガの大きな目的の一つだ、と解説は結んでいる。老いと死から自由になるという主張は、あくまで原典と解説がそう述べている、ということとして読んでおきたい。

つまり、少なくともこの原典での中心は、感覚を引き戻すことではなく、体の中の生命力が無駄に焼かれてしまわないように保つことだった。第五十四節や第五十五節の訳語が「感覚の調整」「感覚の制御」のままになっているので、訳文だけを追うと気づきにくいけれど、著者の解説は、ハタヨーガではこの言葉の意味が違うことを自分から断っている。

その技法の一つを、自分は知らずにやっていた

さらに意外だったのは、第五十五節の解説が、生命力を保つための具体的な技法として三つの名前を挙げていたことだった。喉を締めるジャーランダラ・バンダ、体を上下逆さにする姿勢のヴィパリータ・カラニー、そして舌を使うケーチャリー・ムッドラーである。

このうちジャーランダラは、記事18で書いたとおり、自分がレッスンの呼吸法のパートでときどきやっているものだ。ジャーランダラ・バンダという名前だということは知っていたけれど、バンダといえば首のことだと思っていた、という程度の付き合い方だった。それが、ある原典の解説では、プラッティヤハーラの技法として数えられている。そんなことはまったく知らなかった。

しかも、同じ三つの技法は、『ゲーランダ・サンヒター』では第三章のムドラーの中に入っている。二十五種のムドラーの列挙の中に、ジャーランダラも、ヴィパリータカラニーも、ケーチャリーもある。そして『ゲーランダ・サンヒター』のプラッティヤハーラは、先に見たとおり、第四章の、心を意志で引き戻す話の方だ。

並べてみると、同じ三つの技法が、一つの原典ではプラッティヤハーラの具体例とされ、もう一つの原典ではムドラーに分類されていることになる。プラッティヤハーラという名前の方は、一方では体の技法を、もう一方では心の向け方を指している。名前と中身の組み合わせが、原典のあいだで入れ替わっているように見えた。

念のため書いておくと、ヴィパリータ・カラニーやケーチャリー・ムッドラーは、ここでは名前と原典上の位置づけに触れただけで、やり方には触れていない。どちらも記事10でムドラーとして名前だけ触れたもので、読んで試すものではない種類の技法だと思う。ジャーランダラも、自分は先生が見ている呼吸法のパートの中で、教わった形でやっているだけだ。喉を締めることも、体を逆さにすることも、体調や持病によって向かない場合があるので、気になるなら自分で試す前に教わっている人に聞くところから始めるのがいいのだろうし、体のことで心配があるなら、そこは適切なところに相談する話になる。

『ヨーガ・ターラヴァリー』には、名前が出てこない

三つ目の『ヨーガ・ターラヴァリー』は、記事04で、読み終えても理解できた感覚がほとんどなかったと書いた原典だ。その第十三節に「呼吸と感覚の静まり」という見出しがあったので、ここにプラッティヤハーラが出てくるのではないかと思って読んでみた。

訳文はこうなっている。不規則な呼吸や、息の流れを邪魔する障害がなくなるとき、完全な保息、ケーヴァラ・クンバカの状態に至る。この状態によって、すべての五感の動きは止まり、呼吸と感覚の静まりは高次の心までも静める。解説は、バンダとともに呼吸法を行う人は呼吸を完全に静められるようになり、それによって、さらに感覚までも自在に扱えるようになる、と説明している。続く第十四節では、感覚も動き回らず、息が自然に止まり静まるとき、集中と瞑想に努力することなく入る、とされる。

ここでいう完全な保息は、バンダとともに呼吸法を重ねてきた人が、その先で至る状態として書かれている。感覚を静めるために自分で息を長く止めてみる、という読み方はしない方がいいと思う。

感覚が静まる話が、ここにははっきりある。けれど、プラッティヤハーラという言葉は、訳文にも、単語の意味の欄にも、解説にも出てこなかった。そして感覚が静まるのは、意志で引き戻した結果ではなく、呼吸が静まった結果として書かれている。順番としては、呼吸法が先で、感覚はそのあとについてくる。

これを読んで、自分が最初に書いたことを思い出した。呼吸法のパートでは、そもそも呼吸に集中しているので、わざわざ引き戻すという感じがあまりない。『ヨーガ・ターラヴァリー』の書き方は、その感覚にいちばん近いのかもしれない。呼吸に集中しているうちに感覚が外へ出ていかなくなるのだとすれば、それは引き戻しているのではなく、出ていかないようになっている、ということになる。

名前が同じでも、中身は同じとは限らない

三つの原典を並べると、こうなる。

– 『ゲーランダ・サンヒター』 — プラッティヤハーラという名前で、心と感覚を意志で引き戻す。呼吸法の前に置かれる – 『ゴーラクシャ・シャタカン』 — プラッティヤハーラという名前で、著者の解説によれば生命力を体に保つ。具体例は体の技法で、呼吸法の後に置かれる – 『ヨーガ・ターラヴァリー』 — プラッティヤハーラという名前は出てこない。感覚は呼吸が静まった結果として止まる

同じ名前で違うものを指している原典があり、同じものを別の名前で呼んでいる原典があり、中身はあるのに名前を使っていない原典がある。名前と中身が、原典ごとに一対一で対応していない。

こうなると、プラッティヤハーラの本当の意味はどれか、という問い方自体が、この三つの原典の前ではうまく立たない気がする。どれか一つを正解にすれば、残りの二つの原典が何をしようとしていたのかを取りこぼすことになるからだ。

一つだけ、並べてみて気になったことがある。意志で引き戻す、という書き方をしているのは、三つのうち『ゲーランダ・サンヒター』だけだった。残りの二つは、どちらも体や呼吸の側から入り、感覚や心はそのあとについてくる形になっている。本書は『ゲーランダ・サンヒター』を十七世紀の原典とし、『ゴーラクシャ・シャタカン』の呼吸法については、後の十五世紀、十七世紀の経典に伝わる呼吸法の基礎になっている、と書いている。本書の位置づけに従えば、『ゲーランダ・サンヒター』は二つのうち後の方にあたる。

後の方の原典で、感覚を引き戻すことが呼吸法より前に置かれている理由は、本書からは分からない。実践を重ねるうちに、呼吸法に入る前に心を戻せるようになっておいた方がいい、ということになったのかもしれないし、著者が対比している『ヨーガスートラ』の側の「感覚のコントロール」という意味が、あらためて持ち込まれたのかもしれない。どちらも自分の見立てで、確かめられる材料は今のところない。

瞑想でやるのか、呼吸法でやるのか

最初の問いに戻ると、答えは、原典による、ということになる。『ゲーランダ・サンヒター』なら呼吸法の前に、意志で心を引き戻すこととして置かれている。『ゴーラクシャ・シャタカン』なら呼吸法の後に、生命力を保つ体の技法として置かれている。『ヨーガ・ターラヴァリー』なら、名前は出てこないけれど、呼吸法の結果として感覚が静まり、そこから瞑想に入っていく。三つとも瞑想の手前にはあるけれど、瞑想の時間そのものにやるもの、と書いている原典は、今回読んだ範囲にはなかった。

名前だけを頼りにしていたら、たぶんこの違いには気づかなかったと思う。プラッティヤハーラといえば感覚を引き戻すこと、と覚えていれば、『ゴーラクシャ・シャタカン』の訳語はそのまま読めてしまうし、『ヨーガ・ターラヴァリー』の第十三節は、名前がないので素通りしていたかもしれない。自分は技法をサンスクリット語の名前で覚えるのが得意ではなく、レッスンでも体の動きの方で聞いていることが多い。今回に限っていえば、名前より先に「そこで何をしているのか」を見る読み方の方が、三つの原典の違いが見えやすかった。ただ、それは名前を覚えなくていいという話ではなく、名前だけで分かったつもりになると取り違えることがある、という一例にすぎない。

自分のレッスンで起きていることも、この見方で見直せる気がする。アーサナの最中に観察へ意識を戻すのは、形としては『ゲーランダ・サンヒター』の引き戻す動きに近い。ただし先生のやり方は、力ずくではなく、眺める方だ。呼吸法のパートで引き戻す感じがないのは、『ヨーガ・ターラヴァリー』の順番に近い。そしてジャーランダラは、それとは知らないまま、『ゴーラクシャ・シャタカン』でいうプラッティヤハーラの技法の一つをやっていたことになる。どれも、プラッティヤハーラをしようと思ってしていたことではない。

次にジャーランダラをやるときも、やることは変わらないと思う。ただ、同じ一つの動きが、原典によってはムドラーと呼ばれ、別の原典ではプラッティヤハーラと呼ばれてきた、ということは、たぶん頭のどこかに残っている。