集中・瞑想・悟りの違いを一言で説明できますか

集中、瞑想、悟り。ヨーガの話をしていると、この三つの言葉は当たり前のように続けて出てくる。記事05で読んだ『ゴーラクシャ・シャタカン』の六つの枝でも、アーサナ、呼吸法、感覚の調整のあとに、集中、瞑想、サマーディの三つが並んでいた。ところが、この三つがどう違うのかを一言で言ってみようとすると、途端に言葉が出てこない。集中しているときと瞑想しているときは何が違うのか、と聞かれたら、自分はたぶん口ごもると思う。

手がかりになりそうだったのは、先生がレッスンで話していたことだった。リラックスしながら集中している状態というのは、人にとって稀有な状態なのだという。言われてみれば、リラックスせずに集中していることなら、日常にいくらでもある。締め切りの前に力んで作業しているときも、細かい手作業をしているときも、集中はしているけれど、体はたいていこわばっている。逆にリラックスしているときは、たいてい集中していない。ぼんやりしているか、眠くなっているかのどちらかだ。

二つを組み合わせてみると、力んで集中している、力んでいて集中もしていない、リラックスしていて集中していない、そしてリラックスしながら集中している、という四つの状態ができる。最初の三つは日常でよく知っている。四つ目だけが、先生のいう稀有な状態にあたる。自分の感覚では、瞑想の時間にいちばん良いのはこの四つ目の状態で、そこには確かに、ふだんの集中とは違う手触りがある。

では、本書はこの三つの違いをどう書いているのか。今回は『ゴーラクシャ・シャタカン』の集中から深い瞑想までの節を中心に読んでみた。

本書の答えは、長さと深さだった

集中と瞑想の境目を扱っているのは、第七十六節で、見出しがそのまま「集中から瞑想へ」になっている。訳文は、すべての考えが心に静かに収まり、心が一つのことに集中する状態が、まさに瞑想だといわれる、というものだ。

解説は、これをもう少しはっきり言い分けている。心に起こる雑多な考えが収まり、一つの対象に心が定まる状態が集中で、この集中状態がある程度長く続くことが瞑想であるという。この説明に従えば、集中と瞑想は別の種類の心の働きではなく、同じ状態が短いか長いかの違いとして書かれている。

読む前の自分は、集中は意識して対象を捕まえておくこと、瞑想はもっと違う何か、たとえば力の抜けた別の状態のようなものだと、なんとなく思っていた。本書の区別はそれよりずっと単純で、続く長さだった。

サマーディについても、本書は同じ線の上で説明している。第九十三節の見出しは「深い瞑想サマーディ」で、瞑想がさらに進むと、やがて深い瞑想の状態が訪れる、と解説は書く。感覚の記憶に心を定め、しばらくそこに心をつなぎとめておくことで至るこの深い瞑想の境地がサマーディだという。続く第九十四節は、気の流れが穏やかになるとき心は深い静けさに至り、個と全体の間に距離がなくなるほど一体感が深まることをサマーディとしている。

ここで一つ気づいたのは、今回読んだ節で、本書がサマーディに「悟り」という訳語をあてていないことだった。見出しでも訳文でも、サマーディには「深い瞑想」という言葉が添えられている。記事05で見た六つの枝の列挙でも、サマーディは「瞑想の深まり」と訳されていた。この題名で「悟り」と書いたのは、一般にそう訳されることが多いからだけれど、本書の言葉づかいに従えば、サマーディは瞑想と切り離された別物ではなく、瞑想が深まった先にあるものとして置かれている。

まとめると、本書に従って一言で言うなら、こうなる。集中が続けば瞑想になり、瞑想が深まって自分と外との境目がなくなれば、それがサマーディと呼ばれる。三つの違いは種類の違いではなく、長さと深さの違いだった。

ただし、出発点には条件がある

ここまでなら、集中を長く続ければ瞑想になる、という分かりやすい話で終わる。ところが、その一つ手前の節を読むと、話が少し変わってくる。

集中の練習を扱う第六十八節には、集中は、静まった穏やかな心で練習されるべきである、と書かれている。解説も、体の中心に心を向け、それ以外の動きがない静まった状態で集中することを、まずはなすべきだと言う。この節で集中の対象として挙げられているのは、体を構成する五つの要素(空、風、火、水、土)で、続く節では一つずつの要素への集中が説明されていく。ここでは、その具体的なやり方には立ち入らない。

気になったのは、集中の条件の方だった。先ほどの四つの状態に当てはめると、本書の集中は、少なくとも練習の条件としては、はじめから「リラックスしている」側に置かれている。力んで何かに集中している状態は、本書が集中の練習として想定しているものとは違うことになる。先生が稀有だと言っていた、リラックスしながら集中している状態は、本書ではゴールではなく、集中という段階の出発点の条件として書かれていることになる。

ふだんの感覚で「集中」と言うとき、自分が思い浮かべるのは、たいてい力んで集中している状態の方だ。本書の集中はそれとは違う場所から始まっている。三つの言葉の違いを一言で言いにくかったのは、もしかすると、三つのうちのいちばん手前にある「集中」を、そもそも日常の意味で受け取っていたせいもあるのかもしれない。

ほかの二つの原典では

ここまでは『ゴーラクシャ・シャタカン』の話だった。本書が扱うほかの二つの原典にも、この三つの言葉は出てくるけれど、並び方は同じではない。

『ゲーランダ・サンヒター』は七つの章でできていて、終わりの二章が瞑想とサマーディにあてられている。第六章が瞑想、第七章がサマーディで、この二つは『ゴーラクシャ・シャタカン』と同じく、段階として続いている。ところが、集中には章がない。五つの要素への集中はどこにあるかというと、第三章のムドラーの中に入っている。二十五種のムドラーの列挙のうちの五つが、土、水、火、風、空間のそれぞれへの集中になっている。『ゴーラクシャ・シャタカン』では瞑想の手前の段階として置かれていた集中が、こちらではムドラーの仲間として数えられている。

二つを比べると、集中、瞑想、サマーディがきれいに一本の段階として並んでいるのは『ゴーラクシャ・シャタカン』の方で、『ゲーランダ・サンヒター』では、集中だけが別の場所に置かれていることになる。記事20では、プラッティヤハーラという名前が原典によって別のものを指していたのを見たけれど、集中についても、原典のどこに置かれるかは一通りではなかった。

もう一つの『ヨーガ・ターラヴァリー』には、記事20でも引いた第十四節に、印象に残る一文がある。ある対象に心がとらわれることもなく、感覚も動き回らず、息が自然に止まり静まるとき、ヨーガの練習者は、集中と瞑想に努力することなく入る、というものだ。この一文を読むかぎり、集中と瞑想は、努力して手に入れるものとしてではなく、呼吸と感覚が静まった結果として入っていくものとして書かれているように見える。

言い方は違うけれど、『ゴーラクシャ・シャタカン』が集中の条件にした「静まった穏やかな心」と、『ヨーガ・ターラヴァリー』の「努力することなく」は、同じ方向を向いているように見える。どちらの原典でも、集中は、力を込めて何かをつかまえることとしては書かれていなかった。

自分の瞑想の時間は、どこから始まっているか

これを読んで、自分のレッスンの瞑想の時間を振り返ってみた。

自分の感覚では、瞑想の時間は、リラックスしながら集中している状態から始まる。そこに入れれば、その状態はかなり長く続く。途中で意識がそれることはあって、そのときは呼吸へ意識を戻すけれど、それでも状態そのものが崩れてしまうことは多くない。

本書の定義を当てはめてみると、面白いことになる。集中が「ある程度長く」続けば瞑想だというなら、自分が瞑想の時間にしていることの一部は、本書のいう瞑想に入っている、と読める余地があることになる。ただ、それを自分で言い切るつもりはない。「ある程度長く」がどのくらいなのかを本書は書いていないし、自分の感じている状態が本書のいう集中と同じものかどうかも、自分では確かめようがない。確かなのは、自分の瞑想の時間が、本書が集中の出発点に置いた条件のところから始まっているように感じられる、ということまでだ。

その出発点を、アーサナと呼吸法が用意している

では、日常では稀有なはずのその状態に、なぜ瞑想の時間にはそれなりに入れるのか。自分の実感では、それはアーサナと呼吸法をやってから瞑想に入っているからだと思う。むしろ、そのためにアーサナや呼吸法をやっている、という感覚に近い。

本書を読むと、この順番は原典の側でも同じだった。五つの要素への集中が始まる直前の第六十七節の解説は、ヨーガの練習のプロセスをこう説明している。ヨーガ実践者は、まずアーサナで身体の調和を養い、次に呼吸法によって体の内側のバランスを確立する。そして、感覚と生命の力をコントロールしたうえで、その後に集中を練習するべきだという。解説はこれを、肉体の調整を終えた後、ヨーガの練習は身体的なテクニックから精神的な領域に入る、と締めている。

自分のレッスンも、先生が組んだ流れで、アーサナのあとに呼吸法があり、そのあとに瞑想の時間がある。組み立てとしては、本書の順番そのものだ。本書が第六十八節で集中の条件にした「静まった穏やかな心」を、その前の二つが用意している、と読むと、自分の実感ともよく合う。アーサナと呼吸法は、瞑想とは別の練習というより、瞑想の出発点に手が届くようにするための練習でもあるのかもしれない。

線を一本に通しているのは、呼吸なのかもしれない

最後に、サマーディの節に戻りたい。先生はレッスンでサマーディという言葉に触れることはあるけれど、それがどういう状態なのかを言葉で説明したことはない。だから自分には、サマーディについて本書の記述以上のことは書けない。

ただ、第九十四節の解説には、ここまで読んできたことをつなぐ一文があった。ハタヨーガでは、気の流れの動きである呼吸と、心の動きは連動しているという。気の流れが速いとき、考えも速く流れる。気の流れがゆっくり動くとき、心もまたゆっくりと落ち着く。そして瞑想の中で気の流れがまるで止まったように静かになるとき、心は外の世界と、内の世界である自意識との間の境界をなくす、と続く。

本書は、サマーディを呼吸と切り離して語っていなかった。第九十四節の訳文も、気の流れが穏やかになるとき心は深い静けさに至る、というところから始まっている。そう読むと、アーサナ、呼吸法、集中、瞑想、深い瞑想という並びは、別々の練習を順に積み上げたものというより、呼吸が静まっていくのに合わせて心が静まっていく、一本の線のように見えてくる。自分がレッスンで呼吸法をやってから瞑想に入っているのも、その線の途中をなぞっていることになるのかもしれない。

ただ、ここでいう呼吸の静まりは、『ヨーガ・ターラヴァリー』では「自然に止まり」、第九十四節の解説では「まるで止まったように」と書かれていて、瞑想に入るために自分から息を止めにいく話としては書かれていない。息を止める練習については記事19で書いたとおりで、読んで試すものではなく、見てもらいながら教わるものだと思う。境目がなくなるという状態を目指して、呼吸のやり方を自己流に変えることとも別の話だ。

もちろん、この線の先にあるとされる、個と全体の境目がなくなる状態がどういうものなのかは、自分には分からない。解説はそれを「落ち着いた安全な一体感」とも書いているけれど、それも原典の解説がそう述べているということで、自分が確かめたことではないし、この記事がその状態の安全を請け合えるものでもない。

それでも、題名の問いには、ひとまずこう答えられそうだ。集中と瞑想と深い瞑想は、長さと深さの違いで、どれも静まった心の上に続いている。そして、その静まった心は、呼吸と一緒に静まっていく。一言で、と言われると少しはみ出すけれど、次に瞑想の時間に呼吸へ意識を戻すとき、自分がその線のどのあたりにいるのかを、前よりは少し考えられるようになった気がする。