チャクラは本当に体にあるのか — 伝統と現代の見方

チャクラという言葉を最初に覚えたのは、ヨガではなく漫画だった。『NARUTO』では、登場人物たちがチャクラを練り上げて術を使う。体の中に流れるエネルギーのようなもので、それが多い少ない、流れが乱れている、といった話が当たり前のように出てくる。少年漫画を読んで育った身としては、ああいうものが本当に体の中にあったら嬉しい、という気持ちは今でも少しある。

一方で、ヨガを始めてからチャクラという言葉を耳にする場面は、どちらかというとスピリチュアル系の文脈に寄っていた。癒しやヒーリングの話題と一緒に出てくる言葉、という印象で、ハワイのスピリチュアル系でも扱われているようなイメージがある。先生のレッスンでは、チャクラに触れられたことは一度もない。呼吸法のあとの瞑想でも、言われるのは基本的に呼吸に集中することで、呼吸のほかに何か好きなものを思い浮かべてもいい、と言われた覚えがあるくらいだった。

だから自分の中では、チャクラは積極的に考える対象ではなかった。医学的な裏付けが少しでもあれば紹介もしやすいのだけれど、それが見当たらない以上、書き手としては扱いに困る。

ただ、本書には載っている。しかもかなりの分量で載っている。前回、前々回とプラーナやナーディーを読んできた流れで、ここを飛ばすのも不自然に思えたので、まず本書が何を書いているのかを確かめ、そのうえで「本当に体にあるのか」という問いにどこまで答えられるかを考えてみることにした。

本書のチャックラは「プラーナが集まる場所」

本書は、この語を「チャックラ」と表記している。定義は『ゴーラクシャ・シャタカン』を解説するくだりの、かなり早い段階に置かれていて、体にはたくさんの気が流れていて体の動きを作り出している、このエネルギーをヨーガの言葉ではプラーナという、と前置きしたうえで、体の中でもプラーナが多く集まる場所があり、それをチャックラと呼ぶ、と説明される。原典の訳文の側では「気のポイント」という言い方もされている。

数についても、最初にはっきり書かれている。経典によって数は違い、体に七〜九か所ある。この経典では七つ。 最初の一文から、数が一つに決まっていないことが前提になっていた。

そのあと、下から順に位置が示されていく。本書の表記のまま並べると、次のようになる。

1. アーダーラ:骨盤底筋の真ん中、会陰部のあたり。四つの花びらで象徴され、「カーマ(快楽)」と呼ばれて達人たちに大事にされている 2. ソヴァディシュターナ:生殖器にあたる。「ソヴァ」という音はプラーナを意味し、名前全体で「生命の基盤」を指すと説明される 3. マニプーラ:おへその下にある球根のような場所(カンダ)の中心。解説では「ちょうどお腹の真ん中」 4. アナーハタ:心臓 5. ヴィシュッダ:喉 6. アーンニャー:眉毛の間 7. サハスラーラ:頭頂。原典の語では「最高の蓮」

一番下のアーダーラについては、とくに言葉が多い。会陰部の真ん中に、背骨の方を向いた生命力のシンボルがあり、宝石のように先端が輝いている。それは熱した金のように輝く炎のようで、四角形のシンボルを持ち、その炎は「すべてを焼き尽くす時間」とも呼ばれる。そしてこの存在を知る者はヨーガを知る者である、とまで書かれている。解説はこれを、生命の根源は体の根幹にある、ということを表現している、とまとめていた。

一般にはムーラーダーラ、アージュニャーと書かれることの多い名前が、本書ではアーダーラ、アーンニャーになっている。細かいことだけれど、ほかの本やサイトと見比べるときに戸惑いそうなので書いておく。

七つは、一つの経典の中でそろっていない

ここまでは素直に読めたのだが、読み進めるうちに、七つという数の扱いが気になってきた。

まず、七つの名前がまとめて出てくる場所がない。最初の方の節で名前と位置が示されるのは下の三つだけで、心臓、喉、頭頂が出てくるのは六十節あまり先、生命力が下から順にお腹、心臓、喉と眉間を通過して頭頂の「最高の蓮」に至る、という節になってからだった。その節でも、原文の語として名前が挙がっているのはお腹と心臓と頭頂で、喉と眉間は訳文の中で場所として触れられるだけになっている。

後半には、チャックラに一つずつ瞑想していく節が続く。そこに置かれた一覧表は七つがきれいに並んだものなのだけれど、表の下に本書自身の注記がある。この経典には七つすべての名前は記述されていない。七つについて詳しくは『シャット・チャックラ・ニルパナ』という別の経典に記されていて、この表はそれを参照している。 よく見かける七つのチャクラの図は、少なくともこの本の中では、別の経典から持ってきて並べたものということになる。

しかも、瞑想の節の並びは七つと一致していない。喉と眉間のあいだに「ランピカー」という八つ目の点が入ってくる。咽頭と鼻腔のあたりにあって、命のエッセンスがあふれ、月の宿る場所とされる。解説は、ハタヨーガの経典には通常七つのチャックラが記されることが多いが、この経典では喉と眉毛の間にもう一つのエネルギーのポイントが記される、と書いている。一方で、この一続きの瞑想の節の中には、頭頂のチャックラに瞑想する節が見当たらない。瞑想の節の最初の解説は、この経典には七つのエネルギーのポイントが説明されている、と書いて始まるのだけれど、最後の「すべてのチャックラに瞑想」の節の解説は、「ここまで説明してきた六つのチャックラ」と書いていた。

七つとした節、頭頂までの経路を示した節、六つとした解説、七つ+ランピカーの表。同じ本の中で、数え方が少しずつ違っている。 誤りを探したいわけではなくて、むしろこれが、この記事の問いにとって一番大事な材料なのではないかと思った。

本書は、チャックラを体の言葉に置き換えていない

もう一つ、読みながら確かめたかったことがある。

前回ナーディーを読んだとき、本書の解説はナーディーを「現代科学でいえば血管であり、神経の通り道」と言い換えていた。中央の通り道には「背骨の中枢神経にあたる」という注記までついていた。それなら、チャックラの方も何かに言い換えられているのではないか、と予想していた。

ところが、チャックラの節を最初から最後まで見ても、神経も、神経叢も、内分泌の腺も出てこない。位置は骨盤底筋、会陰部、生殖器、おへそ、心臓、喉、眉間、頭頂と、体の部位の名前で示されるだけで、説明はあくまで「プラーナが集まる場所」「エネルギーのポイント」のままだった。

例外は一箇所だけある。眉間のチャックラの解説に、一説によれば、この場所は、まだ謎の深い脳の松果体の機能と関わりがあるといわれている、とある。ただしこれも「一説によれば」「まだ謎の深い」と二重に留保がついていて、本書がそう主張しているというより、そういう説があることを紹介している書き方になっている。

ナーディーには言い換えを試み、チャックラにはほとんど試みていない。その差が何によるのかは本書には書かれていないので分からない。ただ、ナーディーは「通り道」である以上、血管や神経という通り道と重ねやすかったのに対して、「集まる場所」の方は、重ねる先が見つからなかったのかもしれない、という気はする。

本書の中でのチャックラの使われ方

では、本書はチャックラを何のために置いているのか。

後半の瞑想の節を読むと、答えはかなりはっきりしている。どの節も同じ形をしていて、まずそのチャックラの位置と姿が述べられ、続いて、鼻先に意識を向け、このチャックラに瞑想することで何が得られるか、が書かれる。一番下のアーダーラは燃えるような金色をしていて、ここに瞑想すれば罪から自由になる。ソヴァディシュターナなら過去の悪行の影響から解放される。マニプーラなら世界を動かすことが可能になる。心臓と喉なら普遍の存在と一つになる。眉間なら苦しみから解放される。ランピカーなら死から解放される。

得られるとされるものは、どれも大きい。これは原典がそう述べているということであって、自分がそれを確かめたわけでも、この記事がそれを保証するわけでもない。ただ、書き方の構造としては、チャックラは瞑想で意識を向ける先として配置されている。 体の中に何があるかを記述するための語というより、どこに注意を置くかを指定するための語、という方が本書の使い方には近いように思う。

もう一つ目にとまったのは、呼吸との結びつきだった。喉のヴィシュッダは、名前の意味そのものが呼吸で説明されている。「ヴィ」は呼吸、「シュッダ」は浄化で、浄化された呼吸が通る場所だから、ヴィシュッダと呼ぶ。心臓のチャックラについては、この蓮はプラーナーヤーマ(呼吸法)で開くことができる、とある。解説は、その場所に心を集中させながら呼吸法をすることで開かれてゆく、と言い換えているが、呼吸法のやり方にはこの記事では立ち入らない。ここでは、チャックラの説明の中に呼吸が入り込んでいる箇所が二つある、ということだけを書いておく。

百年前に、同じことを考えた医師がいた

ここで、自分が個人的にずっと気になっていたことに戻りたい。

先生からは、呼吸法は呼吸のコントロールを通じて自律神経にアクセスするものだ、と説明を受けている。自分も呼吸をするときは、どこの筋肉がどう動いているかを思い描くことがあって、そのイメージを持っていると深く吸い込める。そうすると、チャクラというイメージが、自律神経の実際の働きと近いものなのかどうかが知りたくなる。近いのであれば、取り入れてみてもいいのかもしれない。

調べてみると、同じ問いを百年ほど前に立てた人がいた。インドの医師ヴァサント・G・レーレが一九二七年に出した『The Mysterious Kundalini』という本がそれで、きっかけの出来事が本の冒頭に書かれている。一九二六年、ボンベイの医師会の会合で、デーシュバンドゥというヨーガの行者が、手首とこめかみの脈を意図的に止め、心臓の拍動を数秒止めてみせた。居合わせた人たちが、筋肉の操作だ、催眠だ、神経の制御だ、と口々に説明を試みる中で、レーレは、解剖学と生理学を知る医師こそこれを説明できるはずだと考えた。

そのうえでレーレは、ヨーギが体の働きを抑えるのに使う制御点をチャクラと呼んでいるのだとし、それを現代の言い方でいえば神経叢、それも中枢神経ではなく自律神経系の神経叢だ、と書いている。対応づけは具体的で、一番下のチャクラを骨盤の神経叢に、二番目を下腹部の神経叢に、へそのチャクラを太陽神経叢に、心臓のチャクラを心臓神経叢に、喉のチャクラを咽頭の神経叢にあてていく。

実際、体の中にはそういう場所がある。解剖学の資料によれば、心臓の付け根には心臓神経叢があり、みぞおちの奥、胃の後ろのあたりには腹腔神経叢がある。腹腔神経叢は太陽神経叢という別名でも呼ばれている。骨盤の中にも、側壁に沿って下下腹神経叢がある。どれも自律神経の中継点にあたる。本書のマニプーラの位置は、最初の方の節では「おへその下」、瞑想の節の解説では「おへそからみぞおちあたり」と幅があるけれど、みぞおちまで含めるなら、太陽神経叢とそれほど遠くないところにある。

位置だけを見れば、胴体の下の方から胸にかけては、たしかに重なるものがある。 自分の問いに対して、半分くらいは「近い」と言えそうな材料だった。

それでも、重なるのは位置までだった

ただ、レーレの本を読んでいて印象に残ったのは、対応づけそのものより、その書き方の慎重さだった。二番目のチャクラは「おそらく」下腹部の神経叢、心臓のチャクラは心臓神経叢と「同一視されるように思われる」、喉は「おそらく」咽頭の神経叢。断定を避けた言い方が、何か所にも出てくる。

そして、原典が各チャクラに結びつけている力については、はっきり判断を保留している。瞑想すれば病から自由になる、千里眼を得る、千年のあいだ若さを保つ、といった記述を並べたあとで、科学者たちはこれらの力を笑うだろう、それが本当かどうかは時が示すだろう、と書いていた。

つまりレーレが結びつけたのは、チャクラの位置と神経叢の位置、そこまでだったように読める。チャクラに瞑想すると何が起きるのか、それが神経叢の働きとしてどう説明できるのか、という部分は、百年前の時点で仮説のまま置かれていた。デーシュバンドゥの実演についても、本当に脈が止まっていたのか、止まっていたとしてどういう仕組みなのかは、この本の記述だけからは判断できない。言うまでもなく、脈や心拍を止めようとするのは、真似をして確かめるようなことではない。

それに、上の方ほど重なりにくくなる。自分が調べた範囲では、眉間や頭頂に、胸や腹にあるような自律神経の大きなまとまりは見つけられなかった。レーレも眉間のチャクラについては、頭蓋の底の神経叢から眉間へ伸びる枝、というかなり遠回りな当てはめ方をしている。本書が眉間について紹介していた松果体の話も、「一説によれば」という扱いだった。

チャクラをイメージすることが自律神経に何か作用するのか、という点については、自分はその裏付けを知らない。探し方が足りないだけかもしれないけれど、少なくとも今の自分には、そうだと言える材料がない。

体の中に「ある」のか

最初の問いに戻ると、答えは二つに分かれる気がしている。

器官として、たとえば心臓や胃と同じような意味で体の中にあるのか、と聞かれたら、本書自身がそういう扱い方をしていないように思う。数は経典によって七〜九と違い、同じ本の中でも七つ、六つ、七つ+一と数え方が揺れ、七つの一覧表は別の経典から持ってきたものだった。解剖すれば見つかるものであれば、こういう書かれ方はしにくいのではないか。本書がチャックラを体の言葉に置き換えようとしなかったのも、置き換える先がなかったからなのかもしれない。

一方で、瞑想のときに意識を向ける場所として、原典の中にはっきり「ある」。どこに置くか、どんな姿を思い描くか、そのとき何が得られると言われているかまで、細かく書かれている。場所としての実在ではなく、注意を向ける先としての実在と言えばいいのか、まだうまい言い方が見つからないけれど、原典が書いているのはそちらの方だと思う。

そう考えると、先生がレッスンでチャクラに触れないのも、自分にはそれほど不思議ではない。瞑想で意識を向ける先は呼吸で、呼吸のほかに好きなものを思い浮かべてもいいとも言われていた。何を思い描くかは、こちらに任されている。自分の場合、呼吸法の時間には筋肉の動きを思い描いているし、意識を向ける先がすでにあるなら、チャクラを持ち込む必要はない。逆に、ほかに何も手がかりがないときに、チャクラの位置を思い描いてアーサナや呼吸法をしてみる、というのは、原典の使い方からそれほど外れていないようにも思える。ただ、思い描くものを変えることと、呼吸法のやり方を自己流に変えることは別の話で、後者は先生に見てもらいながら進めるものだと思っている。

漫画のチャクラのようなものが、骨や筋肉と同じように体の中に入っているかといえば、たぶんそうではない。それは少し残念ではある。ただ、百年前の医師が脈を止める行者を前に、これは自律神経の話なのではないかと考えて、それでも位置の対応までで踏みとどまり、残りを「時が示す」と書いていたのを読んで、その踏みとどまり方の方に、今の自分は近い気がしている。